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内田樹さんの「自分のヴォイスを見つけるためのエクササイズ」(その9) ☆ あさもりのりひこ No.1223

外からの規範が効かない局面で、自分の行動を律する「自分のためのルール」を持っているかどうか、それがとてもたいせつだ

 

 

2022年8月6日の内田樹さんの論考「自分のヴォイスを見つけるためのエクササイズ」(その9)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

O川さま

 こんにちは。内田樹です。

 課題頂きました。返信遅くなってすみません。母の葬儀やらなんやらで、いろいろ用事が立て込んでいて、あちこちに不義理をしてしまいました。

「オトコのプライド」むずかしかったですか。

 プライドというより「自己規律」というほうがいいのかもしれません。

 外からの規範が効かない局面で、自分の行動を律する「自分のためのルール」を持っているかどうか、それがとてもたいせつだという話を昨日の寺子屋ゼミでしたところでした。

 昨日のテーマは家庭内暴力(子どもを放置して餓死させた親の話)でした。

 この母親をメディアと司法はめちゃくちゃに叩きました。

 発表者の女性は、母親をここまで追い詰めた家族たちと行政のことを主題にしていました。

僕はそれだけではなく、今の日本を(いや世界全体かな)を覆い尽くしている自己規律の緩みということを重く感じました。

 この母親は「育児は苦役だ」「それよりお酒飲んでホストと遊んでいる方がたのしい」という「本音」にある時点で全面的に屈服してしまいました。

 でも、心のどこかに「いや、小さな子どもたちの面倒をみないと」という義務感はあって、いつも何らかの疚しさにつきまとわれていたのだと思います。

 そのふたつの気持ちを同時に持っているのがふつうの人間です。

 僕が自己規律と呼ぶのは、このふたつの気持ちの間のバランスをとる能力のことです。

「子どもの面倒をみろ」というのは社会的規範です。「それより遊びたい」というのは個人的な欲求です。その間で「なんとか折り合いをつけねば」と、あれこれ手持ちの資源の残高を勘定しながら、できることをしてゆくことを僕は「自己規律」と呼びます。

 自分自身に対する「手綱」を強めたり、緩めたりする技術のことです。

「オトコのプライド」というのは社会的規範です。内的に十分な根拠があるものではありません。社会的規範を過剰に内面化してしまうと、生きるのがどんどん不自由になります。では、その逆に規範なんか無視して、ただ生理的欲求に従って生きれば自由になるかというと、そうでもありません。ただエゴイスティックにふるまうだけの人間はどのような社会的信頼も得られません。支援者もいないし、友人もいない。それはそれでずいぶん不自由な生き方です。

 規範に従っても不自由、欲求に従っても不自由。この矛盾のあいだに引き裂かれているのが「ふつうの人間」です。

 その引き裂かれている状態をそれなりに快適に生きる技術のことをぼくは「自己規律」と呼んでいます。

 それは言い換えれば「私」という多極的・多層的な存在を制御する技術のことです。

 僕の中には、エゴイスティックで、暴力的で、なまけ者で、強欲な「ウチダ」もいるし、博愛的で、穏やかで、勤勉な「ウチダ」もいます。どちらもほんとうの「ウチダ」です。どちらか一方に片付けろと言われても、それは無理です。

 そういういろいろな「ウチダ」をなんとか折り合いを付けて共生させる技術が必要なんです。

 O川くんが書いているように、今の女たちは「社会的規範」をやや多めに身体化し、男たちは「生理的快不快」による判断を過剰に重んじるようになっています。

 それは社会のジェンダー規範の変化に対するそれなりの補正の動きなんだろうと思います。

でも、いつも補正の動きは過剰になるんですよね。

「古い」タイプの性役割も「新しい」性役割も、どちらも社会的フィクションであることに変わりはありません。でも、打ち捨てられた「古い」タイプの性役割規範にもそれなりの条理はあります。

 そういう規範をバランスよく自分のために調合する能力、それが成熟のためには必須のものではないかと僕は思います。

 そういうことを考え始めるきっかけになるといいなと思って「オトコのプライド」という課題を出したけれど、むずかしかったですね。

 ごめんね。

 でも、これはとてもたいせつなことなので、もうちょっと「オトコ」シリーズを続けます。

 課題20は「男が泣くとき」です。

 O川くん自身の話でもいいですし、他の人の話でも、一般論でもいいです。

「男が泣く」という場面をひとつ入れて文章を書いて下さい。

 では。がんばってね。

 

O川さま

 こんにちは。内田樹です。

「男の涙」読みました。

 この下のところ、O川くんがいままで書いたなかでいちばん「ヴォイス」の響いた文章だったと思います。

 

「励ます意図で言ったことだと思うけれど、僕は少し違和感を感じた。

そういう言い方があまりにも定型的で反感すら持ってしまった。

ただ、祖父はそのニュアンスを素直に受け取ったのか、笑ったような泣いたような顔になり、ほんの少しだけ目を潤ませていた。」

 

 O川くん自身の「感想」と、O川くんが見たままの「観察」がお互いに排除し合うことのないままにさらさらっと共存しています。

 これなんですよ。「ヴォイス」って。

 書き手の内面の思いと客観的な記述が共生しているものなんです。

 思いがこもっていないと「生きた」文章にならない。クールでリアルな観察が伴っていないと「読める」文章にならない。

 この「さじ加減」がむずかしいんです。

 多くの人はそれを間違えて、べたべたに情緒的な文体を選んだり、感情のまるでこもっていないハードボイルドな文体を選んだりして、「すっきり」させようとする。

 ヴォイスは生身の声ですから、すっきりするはずがないんです。

 澱んだり、たわんだり、きしんだり、震えたりするものなんです。

 そういう文章を書いて欲しいと思って、O川くんにいろいろ難問を課しているのであります。でも、年末最後の課題でこれまででいちばんよい文章を書いてくれたので、僕はとてもうれしいです。

 

では、来年の最初の課題(21)を。

「死者の切迫」です。ちょっとむずかしいかな。

 人間は誰でも「死者」を「けっこう身近に感じる」ことがあります。

 どういう場合にそうなるのか、僕にもまだよくわかりません。

 幽明境を異にして、「壁のむこう」側にいるはずの人がなんだかすぐ側にいるような気がすることがある。

 僕たちが現実だと思っているものと非現実だと思っているものの間を分かつ「壁」はそれほど堅牢なものではないようです。

 O川くんが、死者をふっと身近に感じたことがある経験(べつに幽霊を見たとかそういう話ではないです。そういう話でもいいですけど)があれば、それを思い出してみてください。

 

ではよいお年をお迎えください。