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今の日本社会をみると、共感がすごくもてはやされていて、その状況に違和感を持っています。
2022年8月14日の内田樹さんの論考「共感にあらがえ」(その1)をご紹介する。
どおぞ。
はじめて永井陽右君に会ったのは朝日新聞のデジタル版での対談だった。もう3、4年前だと思う。ひさしぶりに「青年」というものに出会った気がした。デジタル版だったので1時間半くらいの対談内容がそのまま掲載された。それを再録しておく。
永井:私は仕事としてテロ組織から降参した人のケアや社会復帰の支援などをやってきました。しかし、国際支援の分野での対象者や対象地に関する偏りがどうも気になっていて。難民だとか子どもだとかそういう問題になると情動的な共感が生まれるのに対して、「大人で元テロリストで人殺しちゃいました」とかだと、それがまるで真逆になる。抱えている問題が同じだとしても、「なんでそいつまだ生きてるんですか?」て話になってしまう。そこが問題意識としてもともとありました。
今の日本社会をみると、共感がすごくもてはやされていて、その状況に違和感を持っています。ただ同時に、「共感」の欠点を自分のなかで考えていくなかで、「そもそも共感するかしないかは自由だな」ということにも気が付きました。となると、「共感しない自由」をどう考えればいいんだろう、というのが私のなかで課題になってきました。
みんなが「共感しない自由」を行使することによって、「共感されない人」が生まれてしまうとしたら、そのときに生まれる問題を私たちはどう捉えればいいのか。
私は「共感するかしないかではなく、誰しも人権はあるのだから、テロリストで殺人を犯した人でも支援される必要がある。そのことを理性を使って理解することが重要なんだ」と思っていました。しかしカント倫理学の御子柴善之先生とお話ししたときに、御子柴先生は「理性と、個々人の持つ倫理・道徳は別ですよね」とおっしゃっていたんです。その話にはなるほどな、と思うところもありました。
そのあとロバート・キャンベルさんともお話ししたのですが、「永井さんは『共感されない』ということを問題にしているけれど、逆に私のようなゲイであることを公言している人間に対して、当事者でもないのに『共感します』なんて言ってほしくもないし、そういった安易な共感自体も問題を生んでいます」と指摘されて、そこでもなるほどとなりました。
そこで内田先生に、この「共感しない自由」をどう考えていけばいいのかを、内田先生に伺ってみたいなと思いまして。
内田:たいへん本質的な問いをされていると思います。永井くんのような若い方は、そういうふうに問題を立てて、悩んでしまうものだと思います。ことを原理の問題として考えてしまうんですよね。永井くんはこう考えているわけですよね。「理念上はすべての人たちを等しく支援をしなければいけない。しかし、現実には、『この人は支援するけれど、この人は支援しない』という選別をしている。どちらかが正しいのか?」と。
結論から言うと、そのどちらでもないということになります。問題を解決するスキームを作るときに、僕たちはまず極端な原理を両側におきます。その場合に設定される原理というのはあくまで問題を解決するための操作概念であり、いわば思考のための装置なんです。
実際に僕たちができることは、その両極端の理念の間にあります。人間一人が使うことのできる時間や体力やお金やネットワークにはおのずと限度があります。そして、その手持ちのリソース以外には使えるものがない。だから、どこにそれを向けるか、優先順位をつけるしかない。すべてに等しく分配することはできないんです。手持ち資源の分配の優先順位については、万人に妥当して、万人が納得するような客観的な基準は存在しません。だから、どんなふうに分配しても、必ず不満が残る。「やるべきことを、やるべき順序で行ったので、これでパーフェクト」ということは絶対に起きないんです。でも、僕はそれでいいと思う。地球上の70億の人に対して等しく敬意を抱いて、等しく支援するということはできません。手の届くところから支援するしかない。でも、「手の届くところから支援する」ことが正しいわけじゃない。もし「俺は好きな人しか助けない。嫌いな人のことは無視する」と公言する人がいたら、それはいくら何でも非常識だと思います。でも、その人に向かって、「君は間違っている」と非難することは僕にはできない。たしかに、非常識だし、人としてどうかとは思うけれど、「間違っている」とは言い切れない。それで仕方がないと思うんです。不人情とか狭量とかいうのはたしかに人として物足りないけれど、叱責や処罰の対象ではない。世界のすべての人を同時に支援するほどの力はないけれど、身近な人にしか支援が届かないのは悔いが残る。それでいいと思うんです。100%うまくいったということもないし、100%失敗だったということもない。僕たちはその両極端の中間のどこかにいる。両極端の間に拡がるグレーゾーンの中で、自分の力量に見合ったところで仕事をするしかない。
永井:うーん、なるほど。理性や人権という「原理」ではなく、「不人情」とか「常識」で考えたほうがいい、と。
私が思うのは......たとえば学校の休み時間に、「よっしゃ遊びに行こうぜ!」って言っている人がいる一方で、「私たちはおしゃべりしましょうね」って言ってる人もいるとします。そのときは、みんなが自由意志に基づいて行動しているわけですよ。
でも、その教室のなかでポツンとひとりぼっちになってしまう人がいた場合、それって誰の責任なんだろう? と思うんです。そのひとりぼっちの人が「一人は寂しい。寂しいけど誰にも言えない」と感じていたら、それは問題だと思うんです。じゃあその問題の解決って、誰がやるべきなんだろう?と考えてしまう。みんなが「共感しない自由」があるなかで、問題がぽつんと起きてしまったとき、どうすればいいのかな、と思って。
内田:その「ひとりぼっちの子」というのが、永井くんの場合だと、誰にもかわいそうと思ってもらえない、誰にも共感してもらえない元テロリストだったりするわけですよね。たしかに「テロリストには共感できない」というのは人情としては自然だと思うんです。それでも、ひとりぼっちで寂しい思いをしている人を見たら、つい手を差し伸べてしまうということもまた人情としては同じように自然だと思うんです。そして、僕はこの「つい手を差し伸べてしまう」ということが倫理の一番基本にあると思う。「惻隠(そくいん)の情」だと思うんです。
永井:惻隠の情、ですか。