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内田樹さんの「共感にあらがえ」(その2) ☆ あさもりのりひこ No.1228

何も考えないうちに、支援を求めている他者の訴えに身体が自動的に反応してしまう。それが人の道の基本だと『孟子』には書いてある。

 

 

2022年8月14日の内田樹さんの論考「共感にあらがえ」(その2)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

内田:惻隠というのは、たとえば幼い子どもがよろよろと歩いていて井戸に落っこちそうになっている時に、思わず手を伸ばして助けてしまうということです。この子を助けたら、後から親に感謝されるだろうとか、助けなかったら周りのやつから後から「非人情だ」と罵られるかもしれないとか、そういう計算をするより先に思わず手が出てしまっていた、というのが惻隠なんです。何も考えないうちに、支援を求めている他者の訴えに身体が自動的に反応してしまう。それが人の道の基本だと『孟子』には書いてある。

 この時に、とっさに手が出るのは、相手が無力な子どもだからですね。これががっしりした身体の大人だったら、そんなに自然には手が出ないかも知れません。井戸に落ちるなんてバカなやつだな。おい、誰か手が空いているやつがいたら助けてやれよ、くらいのリアクションかも知れない。惻隠の情が発動するためにはそれなりの条件があるということです。

一つは、「自分から見て弱者である」ということです。もう一つは、「自分の力の範囲内で救うことができると思える」ということです。その条件が整えば惻隠の情は自動的に発動する。でも、相手が自分より強者であったり、とても自分の力では救えないような状態の場合には「思わず手が出る」ということは起きない。

 

永井:それは「本能的な反応」みたいなことなんですか?そうした瞬間では頭で考えるよりも前に体が動いたというのはたしかにありそうではあります。

 

内田:永井くんの場合だと、目の前の元テロリストの青年を見た時に、彼が「井戸に落ちかけた子ども」に見えてしまうんだと思います。だから、手を差し伸べる。でも、誰の眼にもそう見えるわけじゃない。ふつうの人にはそんなふうには見えないかも知れない。

 だから、目の前にいる人を支援する気になるかならないかは、多分に永井くんの個人的な能力の高さによって決まるんだと思います。ソマリアのギャングがいきなり手に銃を持って出てきたら、恐怖や嫌悪感が先立つでしょう。それが「井戸に落ちかけた子ども」に見えるというのは、かなり例外的なことだと思います。

 

永井:じゃあもし、教室の中でひとりぼっちで取り残された人が、自分から見て弱者ではないし、自分の力の範囲内で救うことができるとも思えないし、なんならついでにたとえば嘘ばかりついて、万引きもして、人殺しもしていて、誰も「共感」してくれない人だったら、「惻隠の情」は発動しえないということになるのでしょうか。逆に言えば、自分から見て弱者であり且つ自分の力の範囲内で救うことができるとどんどん思えるようになっていけば、惻隠の情をより多く発動させることができるということですか?

 

内田:それは「感情の器」の大きさによるんだと思います。誰かが一人でポツンといるのを見ても、何も気にならないという人もいるし、胸がいっぱいになる人もいる。胸がいっぱいになった人は功利的な計算抜きで、ふと「一緒に遊ばない?」とか「なんで君、いつも一人なの?」と話しかける。それは相手にすっと伝わると思います。作為がないから。一人ぼっちの人は、近づく人にわずかでも作為や計算を感じると心を閉じますから。でも、作為なしに手を差し伸べられると、ふっと虚を突かれてしまう。

 人の本質を見抜く人だと、どれほどごつい外見で、攻撃的な人間が来ても、その人の心の中に「ひ弱な赤ちゃん」がいるということが見えてしまう。だから、その「ひ弱な赤ちゃん」が怯えていたら、つい手を差し伸べてしまう。それが「人を見る目」ということなのだと思います。

 目の前にいる人の傷つきやすさ、壊れやすさが見えるというのは、人の感情の器の大きさによると思うんです。感情の豊かさは先天的なものです。眼が良いとか、背が高いとか、鼻が利くというのと同じで、先天的なものです。生まれつき感情の器が大きい人がいる。そして、そういう人がすっと手を差し伸べる時の心情というのは、いわゆる「共感」とは違うものだと思いますね。

 

永井:それは共感ではないとしたら......何と言ったらいいんでしょう?

 

内田:「感情の器が大きい」という言い方でいいんじゃないかな。努力してそうしているわけではないし、義務感からそうしているわけでもない。自分の感情の動きに素直に従っていたら、すっと手を差し伸べていたんですから。感情の器には大小があって、それはほぼ生まれつきなんです。感情の器の小さい人に対して「器を大きくしろ」って言っても無理だし、器の大きい人に「小さくしろ」って言っても無理です。一人ひとり、おのれの感情の器に従って、相応のことをすればいいと思う。

 

永井:となると、たとえば、大変そうなホームレスの方と遭遇した際のように道徳心を問われる状況に置かれたとき、自分がもし感情の器が小さければ、そこで即座に反応できずスルーしてしまうわけですよね。スルーしてしまう自分にちょっとモヤモヤするけど、実際の行動としての手助けはできない。この状況をどう理解すればいいんだろう、と思ってしまうんです。自分の感情の器が小さければ仕方ない、大きい人が何かやればいいんだ、ぐらいの気持ちでいればいいんでしょうか。生得的なものだから小さければしょうがないよねとなるのはそれはそれで引っかかる気もします。

 

内田:それはしかたがないと思います。自分の中から湧き出す内発的なものですから、頭で統御することはできない。頭で考えたことは「これこれのことをしなければならない」という文型を取りますけれど、感情の動きはそうじゃない。気がついたら、もう動いていた。そして、それは感情の器で決まる。それで人の倫理性の優劣を論じてもしかたがない。誰でも一人ひとり個人的な限界がある。その能力の範囲内で、できることをすればいいんです。

 でも、それはいやだ、どうしてもすぐに行動できるようになりたいというのだったら、「困っている人を見たら、すぐに人助けをしなければならない」という既製の倫理を外装するという手もあります。宗教であったり、政治イデオロギーであったり、そういう出来合いのものを外付けすることはできます。キリスト教徒になったり、人権派になったり、マルクス主義者になったり......「利他的な行為」を当為として掲げているそういう枠組みの中に身を投じる。そういう枠組みの中では、人を救うための理論や作法が決められている。それを根拠づける体系的な論理があって、具体的な作法がある。歴史的にも十分な成功事例の蓄積がある。それを外部装着することはできます。実際に、そうしている人はたくさんいるし、実際に有効なんです。

 ただ、「外付けされた惻隠の情」にはいろいろと無理がある。たとえば、キリスト教も弱者への愛から始まった宗教ですけれど、キリスト教の名においてこれまで多くの人が死んでいった。殉教した人もいるし、背教者・異教徒として殺された人もいる。その歴史的事実は否定できません。マルクス主義もそうです。被抑圧者に対する憐憫と共感から始まった政治思想ですけれど、マルクス主義の名の下でも多くの人が死んだ。

 

「万人を愛する」という倫理は個人が内発的に支え切れるものではありません。だから、「ありもの」を外付けするしかない。でも、外付けされた倫理はしばしば歯止めが利かなくなる。内発的な倫理は「人として」というしばりがあるけれども、外装された倫理は感情や身体による規制を受けつけずに暴走することがある。