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内田樹さんの「共感にあらがえ」(その5) ☆ あさもりのりひこ No.1232

共感や理解をベースにして人間関係を構築するのは危険だ

 

 

2022年8月14日の内田樹さんの論考「共感にあらがえ」(その5)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

永井:改めて、「共感」と「惻隠の情」の違いを考えたいです。たとえば数年前にトルコの海岸で、3歳のシリア難民の男の子の死体が流れ着いたということがありました。それで全世界が衝撃を受けたのですが、あれは惻隠の情だったんでしょうか?

 

内田:ある程度はそうでしょう。小さな子どもだったから。あれがヒゲの生えたおじさんだったらたぶんそこまでの反響はなかったと思います。哺乳類としての我々の本能には「同種の幼生を見たら支援しろ」ということが刻み込まれています。ライオンだって猫の幼獣が来たらおっぱいをあげたりするでしょ。赤ちゃんってすごい可愛いけれど、あれは可愛くしないと生きていけないからなんですよね。可愛いいから周囲に支援される。赤ちゃんを見てみんなが「何とかしてあげたい」と思うのは本能的なものなんですよ。「惻隠の情」って、相手が猫でも犬でも発動するんです。その点が「共感」とは違う。

 

永井:共感というものには「意識」みたいなものが入ってるってことなんですか? 本能とか反射ではなく。

 

内田:そうだと思います。共感は本能や反射ではない。だって「この人と共感してる」というのは本人がそう思っているだけじゃないですか。本当に他者と心が通じ合ってるかどうかなんて、自分にも相手にも、誰にも確証できない。だから、共感や理解をベースにして人間関係を構築するのは危険だと僕は言っているんです。それよりは、「共感も理解もできないけど、目の前に困ってる人がいたらとにかく助ける」というルールの方が汎用性が高いし、間違いが少ないと思うんです。

でも、人間は本能だけで生きてるわけではない。公正な社会、暴力に屈したり、屈辱感を味わったりしないで生きられる社会を作ろうと思ったら、たしかに「惻隠の情」だけでは足りないんです。それは始まりに過ぎないわけです。孟子も「惻隠の心は仁の端なり」と言っているわけで、そこが出発点なんです。そこで終わっちゃいけない。「赤ちゃんみたいに可愛くない」他者を支援することは本能だけには頼れない。もっと理論的なもの、制度的なもので補強して、足場を作らないと。

 

永井:足場を作って行っていろんなもので補強するにしても、一番根底にあるのは......

 

内田:惻隠の情ですね。

 

永井:ということですよね。私が思うに、機能的な点で言えば、情動的な「共感」というのは、「かわいそう、涙ちょちょぎれるぜ」というところで止まりがち。内田先生の言っている「惻隠の情」は、アクションまで含んでいるように思えます。

 

内田:そうです。集団は「弱い者」を支えて、助けるという仕組みの時に最も高い機能を発揮するものなんです。実際に、強者だけの連合を作って、弱者を切り捨ててゆけばわかります。そんな集団はすぐに消滅する。誰だってたまには病気になるし、怪我もするし、いずれ年を取って、他人の介助がないと生きられないようになる。そういう人を「足手まとい」だとして片っ端から排除したら、集団はどんどん痩せ細って、最後はゼロになる。集団でも個人でも、弱者を支援する仕組みをビルトインしていないと存続できないんです。弱者を支援する仕組みをきちんと整備してある集団の方が、そうでない集団よりも強いんです。

 

永井:原理として「惻隠の情」が機能していることを理解して、そこから積み上げていくしかないのかもしれないですね。

 

内田:そうです。自分の身内だけにしか共感を持てない状態から、同じ地域のメンバーであったり、国民国家の成員であったり、「同胞」の範囲をだんだん大きくしてゆく。時間をかけてそれを少しずつ広げてゆけばいい。最終的には「生きとし生けるものすべてがわが同胞である」というところまで行けば、宗教的な悟りを得たことになるんでしょうけれども、そこまではなかなか行けません。でも、目標はそこですよね。それをめざして歩み続けて、途中で息絶えても別にそれでいいじゃないですか。

 

永井:内田先生に聞いてみたいんですが、私たちは「共感」なるものをもっとうまく使えないのでしょうか?惻隠の情は今日初めて知ったのですが、共感は結構社会でキーワードになっていると思います。

 

内田:僕は「共感」という言葉には警戒心を抱いています。今の日本社会って、「共感過剰」な社会になっているような気がします。共感できる人間だけで固まって、同質的な、集合的共感のようなものを作って、外部の人とのコミュニケーションができなくなってきている。

 

永井:いわゆる「エコーチェンバー」とか「フィルターバブル」と言われている現象ですね。私も全く同感で、すごく気持ち悪いなとも思っています。「共感にあらがえ」の連載を書くに至った一つの問題意識でもありました。

 

内田:共感を強制するせいで、むしろ個人が原子化していっているように見えます。前に大学で学生にレポートを書いてもらったら、二三人が「私、コミュ障なんです」と書いてきました。「コミュ障」というのは若い世代でよく使われる言葉みたいですけれど、要するに他の学生にあまり高度な共感を感じることができないということらしい。

学生たちって、すぐに「キャー! そうそう!」って、激しく頷いて、ジャンプしてハイタッチしたりしますよね。服がかわいいとか、どこかのケーキが美味しいとかいう程度のことで。過剰に共感しているふりをする。どうも、この自称「コミュ障」学生たちは、それができないことを自分の社会的能力の欠如だと思っているらしい。あんな高度な共感は自分にはできない。あの共感の輪に入っていけない。つまり、あのキャーとぴょんぴょんを「共感している状態」だと思っているわけです。でも、あの作為的な共感の輪の中にいる学生たちも、一人ひとりはかなり孤独なんじゃないかと思いますよ。ああいう演技をしていないと仲間として受け入れられないのだとしたら。

僕の友人が大学で「誰にも言えない私の秘密」というテーマで学生に匿名でアンケートを取ったところ、100人中15人くらいが、「今付き合っている友達が嫌いだ」と回答したそうです。なんだか、わかる気がします。小さな集団のなかで「演技的な共感」を強制されて、どんな話題でも「そうそう」と頷いて、100%の共感と理解を示さなければ仲間ではいられないとしたら、それは心理的にはきわめてストレスフルだと思う。

 そういうことは別に女子学生に限られない。おじさんたちだって、おばさんたちだってやっていることは同じじゃないかな。内心は軽蔑したり、嫌っていながら、表面的には過剰な共感を演じてみせないと、仲間でいられないという状況はかなり危険なことだと思います。それよりは、時々は「すいません、何言ってるかわかんないんですけど......」とか「もうちょっと具体的な例を挙げていただけますか?」とか言っても許されるという方がコミュニケーションとしては健全じゃないですか。別にすべてについて同意しなくてもいいじゃないですか。重要な点がだいたい一致するなら、それで十分に一緒に仕事はできるんだから。

理解も共感もできないけれど、この人は約束は守るし、決めたルールには従うというなら、一緒にチームを作れるし、結構大きな仕事だってできる。100%共感できないと何もできないというより、さっぱり共感できないけれど、一緒に安心して仕事ができるという方が僕はいいと思う。「こういうルールでやりましょう」というコントラクト(契約)を取り決めたら、それをきちんと守るという社会性の方が、べたついた共感よりも、集団で生きてゆく上ではずっと大切だと思います。共感や理解は他者と協動するための絶対条件じゃないありませんよ。

 

 結婚だってそうですよ。結婚が100%の共感と理解の上に築かれるべきだということになったら大変ですよ。一度ささいなゆき違いがあって、「あ、オレたち気持ちが通じていない」と思ったら、すぐに離婚しなければいけないんですから。そんなことできるはずがないじゃないですか! 僕は、夫婦間で取り決めた約束を守ることは配偶者に求めますが、妻に「全面的な共感」なんて求めてませんよ。僕みたいな変な男のことを「理解してくれ」なんて言ったら申し訳ないもの(笑)。