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内田樹さんの「共感にあらがえ」(その6) ☆ あさもりのりひこ No.1234

毎日こつこつと継続できる仕事がいつの間にか最も遠くまで僕たちをつれていってくれるんです。

 

 

2022年8月14日の内田樹さんの論考「共感にあらがえ」(その6)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

永井:コントラクトで合意を形成し、個人というよりは集団で考えていきましょう、ということですよね。私はもともと、集団内での合意形成って「共感しない自由」がある以上は、法的な枠組みの中でやるしかないんじゃないかって思っていました。たとえば「人権は権利として定められているので、義務的にみんなちゃんと尊重しましょう」ですとか。

 だけどやっぱり、程度の問題なのかなとも思います。であれば、市民のあいだでボトムアップで合意形成をするやり方の方がいいのだろうか、でもどんなやり方がよいのだろうか......というふうに迷ってしまっています。ボトムアップで合意形成をするための鍵って、何かあったりするんですか?

 

内田:それができたら人類は完成の域に達しますよね。なかなかそこまですぐにはいかないと思います。ただ、「合意形成はできた方がいい」ということについての合意形成は取れたほうがいい。対話できないよりは対話できたほうがいい。

それぞれに立場があるけれど、合意したり対話したりするためには、いったん自分の立場を離れてみる。「集団全体としては何が一番いいのか」ということに関して、みんなで知恵を出し合う。そういう合意形成の訓練はもっと小さい頃からした方がいいと思います。

 勘違いしている人が多いんですけど、合意形成って「誰かが正しい意見を言って、周りの人間を説得してその意見に従わせる」というものではないんです。そうではなく、「みんなが同じくらいに不満足な解を出す」ってことなんです。全員が同程度に不満というのが「落としどころ」なんです。それを勘違いして、合意形成というのを「全員の意見が一致すること」だと思っている。「Win-Win」なんて無理なんですよ。そんな奇跡的な解はふつうはまずありません。合意形成でとりあえず目指すのは「みんなの不満の度合いを揃える」ということなんです。誰かが正解を述べているので、説得するなり、多数決で抑え込むなりして、その正解に従わせるということではない。そうじゃなくて、全員が「俺の言ってることも変だけど、みんなも変」というところから出発して、誰かが際立って損をするようなことがない解を探り当てる。それが合意形成なんですね。

法社会学者の川島武宜が『日本人の法意識』という面白い本を書いているんですけど、そこで日本の伝統的な合意形成の方法の一つが紹介されています。歌舞伎に『三人吉三廓初買』という演目があります。お嬢吉三という悪者が夜鷹を殺して百両を手に入れる。それを見ていたお坊吉三という悪者が「それをよこせ」と言ってワルモノ同士の殺し合いが始まる。そこに和尚吉三が仲裁に入る。この時にどうやってトラブルを収めるかというと、「百両を二つに割って五十両ずつ納めてくれ。それでは足りないだろうから、その代わり俺の両腕を切って、一本ずつ受け取り、それで気持ちを鎮めてくれないか」と言うわけです。この提案に感動して、三人は義兄弟の契りを結ぶ、という話です。

こういう話って、昔からあるんです。合意形成に持ち込むためには、全員が同じ程度に不満足である解を見つけなければならない。そして、合意とりまとめを主導する人間には一番たくさん「持ち出し」をする覚悟が要る。『三方一両損』で大岡越前が出す一両も、『三人吉三』で和尚吉三が出す両腕も、本来ならば彼らにはそんなものを出す義理はないんです。でも、それを「持ち出す」覚悟を示すことで合意形成を主導できる。そういうものなんです。

 現代人はそういった合意形成の要諦をもう忘れていて、「一番正しい意見にみんな従うべきだ」と思っている。合意形成は「Lose-Lose-Lose」の「三方一両損」なんです。だから、「しようがねえなあ。じゃあ、これで手を打つか」という舌打ちとともに終われば上等で、最後にみんなで万歳というようなことは期待しちゃいけない。

 

永井:とても納得できます。意見の優劣を競うというわけではないわけですね。それどころかプラスを消してマイナスを平等にするという。

 

内田:優劣を問うても仕方ないんですよ。現に意見が対立している以上は、そこにはそういう意見を持つに至った個人の歴史があり、そこに至る切ない事情があるわけです。それはある程度認めざるを得ない。みんながお互いの抜き差しならない事情を認め合うことでしか調停というものはできない。永井くんも紛争調停の仕事をしているわけですから、そのあたりのことは経験的にわかると思います。

 

永井:今日のお話で、「個人の感情の器には限りがあるけれど、全員が同じようにパワーアップするのではなく、社会全体でパワーアップしていればいい」というのはたしかになと思いました。

 

内田:一人でやっているだけではつねに無力感に打ちひしがれてしまうでしょう。自分一人でできることは限られているから。一人だけで何とかしようとしたら、絶望的な気分になる。それで当然なんです。だから、つながればいい。でも、それは「共感」とか「絆」とか「ワンチーム」とかいうものではない。「それぞれの場所で、自分に割り当てられた仕事を果たす」ということなんです。

 暗闇の中でたった一人で敵陣に向かって銃を撃っているときに、遠くで誰かが同じように敵陣に向かって撃っている銃火が見える。「戦っているのはオレ一人じゃないんだ」と思えると戦い続ける元気が出てくる。それは共感ではないし、相互理解でもないし、同志的連帯というほどのものでもない。「オレも頑張っているけど、あそこでも誰か頑張っている人がいる」というだけのことです。でも、それだけでも、人間ってずいぶんと強くなれる。

 もちろん、自分一人で問題を解決できるほどに強くなれれば、それに越したことはありません。しかし、原理主義的にあらゆる人間に向かって「おばあさんに席を譲れ!」とか言えないですよね。中学生だったら注意できるけれど、ヤクザだったら二の足を踏む。それは仕方がないことです。そういう時は、「もうちょっと強くなりたい」と思う。その方向に向かってそれからこつこつと努力する。それでいいんです。

 

永井:原理主義的に考えすぎず、もう少し気楽にというか、懐深く構えようと。

 

内田:そうです。「人間としてあるべき条件」を吊り上げるのは決してよいことじゃない。「人間の条件」を満たす人を減らすだけの話だから。

 

永井:私も、御子柴善之先生とお話したときに言われたのが、「頭ではわかるんだけど、体が動かないというのは、何もおかしい話じゃないんですよ」と。でも、「人間としての責任を......」みたいなことを語ってしまいたくなってしまう。同じ人間だから、とするからこそ、時に排他的にもなるし攻撃的にもなりえることもわかりつつなんですけどね。

 

内田:長く仕事を続けたいと思ったら、呼吸をするようにできる仕事をすることです。自分の能力をはるかに超えたような目標は掲げない。三度のご飯を食べて、お風呂に入って、8時間眠って、家族を持って、生計を立てて、時々は息抜きをして遊んで...ということをしながらでも十分にできる仕事をする。毎日こつこつと継続できる仕事がいつの間にか最も遠くまで僕たちをつれていってくれるんです。