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内田樹さんの「アメリカにおける自由と統制」(その4) ☆ あさもりのりひこ No.1239

私たちはフランス革命の標語に慣れ親しんでいるせいで、「自由・平等・博愛」がワンセットのものだと考えているけれど、それは違う。平等は、公権力が強力な介入を行って、富める者の私財の一部を奪い、力ある者の私権の一部を制限して、それを貧しい者、弱い者に再分配することなしには、絶対に成就しないからである。

 

 

2022年8月19日の内田樹さんの論考「アメリカにおける自由と統制」(その4)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 常備軍についての原理的対立は憲法修正第二条の武装権をめぐる対立において再演される。1789年、憲法制定の二年後に採択された憲法修正第二条にはこう書かれている。

「よく訓練されたミリシアは自由な邦の安全のために必要であるので、人民が武器を保持し携行する権利は侵されてはならない。」

 修正第二条の文言を確定するときにどのような議論があったのかはつまびらかにしないが、これが邦の手元に軍事力を残したい地方分権派と軍事力を連邦政府の統制下に置きたい中央集権派の妥協の産物であったことはわかる。というのも、憲法制定時点でフェデラリストたちが最も懸念していたのは、外敵の侵攻と並んで邦政府と連邦政府との軍事的対立だったからである。ハミルトンははっきりと「内戦」のリスクに言及している。

「各州政府が、権力欲にもとづいて、連邦政府と競争関係に立つことはきわめて当然の傾向であり、連邦政府と州政府が何らかのかたちで争うとなると、人々は(...)州政府に必ず加担する傾向があると考えてしかるべきであることは、すでに述べた。各州政府が(...)独立の軍隊を所有することによって、その野心を増長せしめられることにでもなれば、その軍事力は、各州政府にとって、憲法の認める連邦の権威に対して、あえて挑戦し、ついにはこれをくつがえそうという、あまりにも強力な誘惑となり、あまりにも大きな便宜を与えるものになろう。」

 ミリシアを邦が自己裁量で運用できる軍事力として手元にとどめたい地方分権派と、できるだけ軍事力を連邦政府で独占したいフェデラリストとのきびしい緊張関係のなかで憲法は起草され、憲法修正が書き加えられた。原則として常備軍を持たないとしたこと、軍隊の召集・維持の権限を立法府に与えたこと、市民の武装権を認めたこと、これらは連邦派の側からすれば不本意な譲歩だっただろう。連邦派の抵抗の跡はかろうじて「よく訓練された(well regulated)」と「自由な邦の安全のため(the security of a free state)」という二重の条件に残されている。

 ミリシアはのちにNational Guard に改称された。日本語では「州兵」と訳されるが、これは独立戦争の英雄だったラファイエット将軍が母国でフランス革命の時に率いたGarde Nationaleに敬意を表して改称されたのであって、原義は「国民警備兵」である。一方で武装した市民たち自身はいまも「ミリシア」を名乗り続けている。2021年1月20日のバイデン大統領の就任式では、「武装したトランプ支持者」の乱入に備えて「州兵」15000人が配備されたと日本のメディアは報じたけれど、彼らは「暴徒と兵士」でも「デモ隊と警官」でもなく、いずれも主観的には「ミリシア」だったのである。

 

 アメリカの政治文化では、原理主義的な首尾一貫性よりも、そのつどの状況にすみやかに最適化する復元力(resilience)が高く評価される。鶏が先か卵が先かわからないが、この政治文化の形成に、アメリカが建国時点から二種の統治原理に引き裂かれていたという歴史的事実が与っていると私は思う。

 トランプ以後、アメリカの国民的分断を嘆く人が多いが、実際にはアメリカは建国時点から、統一国家なのか連邦なのか、どちらにも落ち着かない両義的性格を持ち続けてきた。その意味では二つの統治原理の間でつねに引き裂かれてきたのである。分断は今に始まった話ではない。

 両院から成る立法府の構成も二つの原理の妥協の産物である。下院定員は人口比で決まるので、下院議員は「その権限をアメリカ国民から直接ひき出している」 と言ってよいが、上院議員は各州2名が割り当てられているので、邦を代表している。日本人には理解しにくい大統領選挙人制度も、大統領を選挙するのはあくまで邦であって、国民ではないということを示している。アメリカは「統一国家的性格と同様に、多くの連邦的性格をもった一種の混合的な性格」 を具えた国家なのである。

 

 そこからアメリカにおける自由の特殊な含意が導かれる。絶対自由主義者は「リバタリアン(libertarian)」を名乗る。彼らは公権力が私権・私有財産に介入することを認めない。だから、徴兵に応じない(自分の命をどう使うかは自分が決める)、納税もしない(自分の資産をどう使うかは自分が決める)。ドナルド・トランプはリバタリアンだったので、四度にわたって徴兵を逃れ、大統領選のときも税金を納めていないことを公言してはばからなかった。そういう人物が大統領になって、公権力のトップに君臨することができるのは、公権力が市民的自由に介入することへの強い拒否がアメリカの政治文化の一つの伝統だからである。

 トランプ統治下のアメリカでCOVID-19の感染拡大が止まらず、世界最高レベルの医療技術を持った国であるにもかかわらず、感染者数でも死者数でも世界最多を記録したのは、医療についても、公権力の介入を嫌う人がそれだけ多かったからである。

『トランピストはマスクをしない』というのは町山智浩のアメリカ観察記のタイトルだが、このタイトルは疾病のリスクをどう評価し、どう予防し、どう治療するかという、本来なら科学的に決定されるはずのことがらが「自由か統制か」という政治理念の選択問題にずれこんでしまうアメリカの特異な風土を言い当てている。

 感染症は、全住民が等しく良質な医療を受ける医療システムを構築しないかぎり終息させることができない。だが、そのためには公権力が患者の治療やワクチン接種といった医療サービスを無償で提供する必要がある。医療を商品と考え、金がある者は医療が受けられるが,金がない者は受けられないという市場原理を信じる人たちの眼には、これは医療資源を公権力が恣意的に再分配する社会主義的「統制」に映る。

 だから、自由と平等は実は両立させることがきわめて難しい政治理念なのである。私たちはフランス革命の標語に慣れ親しんでいるせいで、「自由・平等・博愛」がワンセットのものだと考えているけれど、それは違う。平等は、公権力が強力な介入を行って、富める者の私財の一部を奪い、力ある者の私権の一部を制限して、それを貧しい者、弱い者に再分配することなしには、絶対に成就しないからである。平等を実現しようとすれば、必ずある人たちの自由は損なわれる。それも、その集団において相対的に豊かで、力があって、より活動的な人たちの自由が損なわれる。ミルの論点を思い出そう。平等は「民衆の中でもっとも活動的な部分」の私権を制限し、私財を没収することによってしか実現されない。そして、この「活動的な部分」はミルによればまさに「自分たちを多数者として認めさせることに成功」したがゆえに「活動的」たりえた人々なのである。平等は「多数の市民」の自由を公権力が制約するという図式においてしか実現しない。そして、当然ながらそのことに「多数の市民」は反対するのである。

 いま、世界の最も富裕な8人の資産は、最も貧しい36億人が保有する資産と同額である。それくらいに富は偏在しているわけだけれども、その貧しい36億人のうちにおいてさえ、ジェフ・ベソスやビル・ゲイツとともに自分は「多数者」の側にいると信じて、公権力が私権を統制し、私財を公共財に付け替えることに反対する人たちが大勢いる。それは富豪であるトランプの支持基盤が「ホワイト・トラッシュ」と呼ばれる白人貧困層であったことに通じている。彼らは平等よりも自由の方を重く見る政治的伝統を継承しているのである。

 その「自由主義」思想は「独立宣言」に源流を持っている。「独立宣言」の先ほど引いた「抵抗権」を保障した箇所の直前にはこう書いてあるからだ。

「われわれは、以下の真理を自明のものと信じる。すなわち、すべての人間は平等なものとして創造され、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている、と。(We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty and the pursuit of Happiness)」

 すべての人間は平等なものとして、創造主によって創造されたのである。ここでは、平等はすべての人間の初期条件であって、未来において達成すべきものとしては観念されていない。政府は生命、自由、幸福追求の権利を確保するために創建されたものであって、平等の実現は政府の仕事にはカウントされていない。平等はすでに創造主によって実現している。だから、政府が配慮すべきは人民の生命と自由と幸福追求に限定されるのである。「すべての人間は平等なものとして創造されている」と宣言されてから奴隷制が廃絶されるまでに86年かかり、公民権法が成立するまでにさらに101年かかり、それから半世紀以上経って、いまだにBlack Lives Matter が黒人に白人と平等の人権を求めなければならないのは、平等の実現はアメリカの建国時でのアジェンダに含まれていなかったからである。そして、その政治文化はいまも生き続けている。

 

 

 長くなり過ぎたので、もう話を終える。市民的自由と社会的統制の間の葛藤に「最終的解決」はない。私たちに必要なのは「適度」を探り当てる経験知の蓄積である。自由を扱う技術の習得にはそれなりの時間と手間を覚悟しなければならないのである。