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現象学というのは「自分が経験できるのは世界の断片にすぎず、かつ主観的なバイアスがかかっているので、世界そのものではない」という無能の認知から出発して世界を再獲得しようとする哲学的アプローチである。
2022年9月1日の内田樹さんの論考「現象学と絵画」をご紹介する。
どおぞ。
若い男子からのメールでの「人生相談」がこのところ増えた。先日は電話がかかってきた。ふだんなら「仕事中だから」と言って切ってしまうのだが、思い直してしばらく話を聴くことにした。若い仏文研究者で、研究上の悩みについて話を聴いて欲しいという。縁もゆかりもない人のところに相談してくるのはよほど困じ果てているのだろう。博士論文を準備しているのだが、自分の研究主題や方法を指導教員が認めてくれないという。
聞けば現象学と絵画について書きたいと言う。着眼点は悪くない。
現象学というのは「自分が経験できるのは世界の断片にすぎず、かつ主観的なバイアスがかかっているので、世界そのものではない」という無能の認知から出発して世界を再獲得しようとする哲学的アプローチである。すぐれた画家たちもまた自分の眼で見え、自分の筆で描くことができる断片的な二次元表象を通じて世界を再構成しようとする。脆弱で揺れ動く足場に立ちながら、巨大な世界をまっすぐに受け止めようとするというけなげな努力の方向には通じるところがある。
フッサールによれば、観察者一人では対象の一面しか見ることができない。だが、仮想的に別の視点に立つと、今見えているのとは違う相が見える。それをこつこつ加算してゆけば、対象の全貌に漸近線的に接近できる。フッサールはそれを「共同主観性」と術語化した。ピカソやブラックは複数の視点から見える対象像を同一の画布に描き込めば対象そのものに手が届くと考えて、キュビスムの手法を開発した。『戦艦ポチョムキン』で知られる同時代の映画作家エイゼンシュテインの「モンタージュ理論」も発想はよく似ている。
「同型的なアイディア」が複数の分野で同時に登場することはよくあるのだ。若い人は歴史を遠い視点から見る習慣がない。だから、そういうことを教えてあげるのも年長者の仕事である。