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内田樹さんの「図書館の戦い」 ☆ あさもりのりひこ No.1262

中学生のころから、私は折に触れて図書館の中を長い時間さまよったけれども、そこで一番骨身にしみたのは「読みたい本がこんなにある」という喜び以上に「読むことなく生涯を終える本がこんなにある」というおのれの知見の狭さについての痛切な自覚だった。

 

 

2022年11月13日の内田樹さんの論考「図書館の戦い」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

私を講演にお招きくださる団体は教育関係が一番多い。医療系学会、キリスト教系団体、市民運動の団体からもよく招かれる。最近図書館関係からのお招きが二度あった。

 ご存じだと思うけれど、図書館は今危機的な状況にある。どこの自治体でも図書館はコストカットの標的になっている。その社会的有用性を数値的・外形的に証明することが困難な事業だからである。図書館が市民の知的成熟にどう裨益したのか年度末までに数値的なエビデンスを示せと言われても無理である。予算を投じた分のアウトカムが示せないものは不要な事業だと言われても反論が難しい。だから、図書館予算は削られ、司書は解雇され、民営化される。

 でも、司書たちにとって一番つらいのはどういう本を配架するかについて市場原理を押し付けられることだと聞いた。利用者が読みたがる本だけを置け、閲覧実績のない書籍は廃棄しろ、とにかく来館者を増やせ...というようなことを言われるらしい。だが、それは話が違うと私は思う。

 私自身の「図書館の思い出」は、人気のない書架の間をこつこつと靴音を立てながら長い時間歩いていたことである。左右を見回すとどこまでも続く書架に無数の本が並んでいる。でも、そのほとんどについて私は書名も著者名も知らない。そんなものがこの世に存在することさえ知らなかった専門領域の書物が並んでいる。私が死ぬまでに読むことができる本はせいぜい数千冊だろう。でも、それは今目の前に並んでいる書物の1%にも及ばない。私はここに蓄積された人類の知のほとんどを知らぬままに死ぬのだ。中学生のころから、私は折に触れて図書館の中を長い時間さまよったけれども、そこで一番骨身にしみたのは「読みたい本がこんなにある」という喜び以上に「読むことなく生涯を終える本がこんなにある」というおのれの知見の狭さについての痛切な自覚だった。

 図書館はそこを訪れた人たちの無知を可視化する装置である。自分がどれほどものを知らないのかを教えてくれる場所である。だから、そこでは粛然と襟を正して、「寸暇を惜しんで学ばなければ」という決意を新たにする。図書館の教育的意義はそれに尽くされるだろう。

 もし、図書館の書架が「自分がもう読んだ本とこれから読むはずの本」で埋め尽くされていたら、人はどう感じるだろう。この世のほとんどについてだいたいのことは自分にはわかっていると思い込んだ人間ばかりで構成された社会がどれほど重苦しく、淀んで、風通しの悪いものか、少しでも想像力があれば、わかるはずだ。

 図書館に向かって「みんなが読みたがるベストセラーだけを並べて置け。読まれない本は捨てろ。そうすれば来館者は増える」と言う人たちは知性と無縁な人間である。だが、今の日本では、そういう人たちが行政の要路を占めて、教育や文化予算の配分を決めている。日本の知的生産性が急坂を転げ落ちるように低下したのも当然である。

 政治家が「市民にこういう本を読ませろ」と政治的圧力をかけてくることに対しては司書たちは十分な抵抗力を持っている。けれども、市場のロジックには抗しきれずにいるように見える。

 図書館は人々の「学び」への欲望に点火する貴重な知的装置である。その「聖域」には市場原理や政治イデオロギーを決して介入させてはならない。

 

 そういう話をしてきた。書物を愛する穏やかな人たちなので「全力で抗え」という私のアジテーションには驚いていたようだったけれど、それでも戦う時には戦わなければならない。