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内田樹さんの「アメリカと中国のこれから『月刊日本』ロングインタビュー」(その5) ☆ あさもりのりひこ No.1275

近代市民社会論の基本にある「人として正しい生き方」についての常識を僕は受け容れます。それは、自由と平等と友愛という三つの原理の葛藤のうちで暮らすことです。それが人として「まっとうな生き方」であると僕は思っています。

 

 

2022年11月21日の内田樹さんの論考「アメリカと中国のこれから『月刊日本』ロングインタビュー」(その5)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

― そうすると自由や人権、民主主義という価値観は世界的に衰退していくのではありませんか。

 

内田 世界が多極化・カオス化する以上、欧米にルーツをもつ近代市民社会論の影響力は落ちてゆくでしょう。非欧米圏からは「人権とか民主主義とかは普遍的価値ではなく欧米のローカル・ルールにすぎないんだから、俺たちに押し付けてくれるな」という異議申し立てが盛んに行われるようになっています。でも、繰り返し申し上げますけれども、力のある人間は弱者を収奪してもよい、奴隷化してもよいというような考え方が世界標準になるということはこれから先も絶対にないと僕は思います。

 近代市民社会論の基本にある「人として正しい生き方」についての常識を僕は受け容れます。それは、自由と平等と友愛という三つの原理の葛藤のうちで暮らすことです。それが人として「まっとうな生き方」であると僕は思っています。僕はこの常識を撤回する気はありません。

 100年単位の長期スパンで見ると、世界は少しずつですけれど、だんだん「人間的」になってきていると思います。もちろんいまも戦争はあり飢餓で苦しむ人もいるし、独裁者が市民を逮捕したり拷問したり殺したりすることも世界中で起きています。それでも、100年前、200年前に比べれば戦争の死傷者の数も、餓死者の数も減ったし、拷問や不法拘禁や人種差別や性差別もずいぶん抑制されました。総体として、世界は少しずつ住みやすいものになっている。総じて欧米の近代市民社会論がめざしていた方向に推移している。

 ヨーロッパは紀元前から2000年間ずっと戦争をしてきました。その経験を踏まえて「人がこれ以上殺し合わないためには、どうしたらいいのか」についてひねり出したアイデアが近代市民社会論です。観念的な社会論ではありますけれども、流血と暴力の生々しい経験から出てきたものであることは事実です。この先も一時的なバックラッシュは繰り返しあるにせよ、最終的に世界は近代市民社会の実現に向かって不可逆的に前進を続けてゆくだろうと僕は思っています。

 

― 世界が多極化・多層化する中で、それぞれの国は自国の価値観を強調しています。その中で、日本は命懸けで守るべき価値観を見失っているように思います。

 

内田 残念ながら、今の日本に「命がけで守るべき価値観」はありません。だから、アメリカのように自国の価値を広めることも、中国やロシアのように他国の価値観に反発することもできない。悲しいけれど、これがいまの日本の実相です。

 戦後日本の統治原理上の二本柱は憲法1条の象徴天皇制と憲法9条の平和主義です。つねづね申し上げているように、天皇制と立憲デモクラシーは統治理念として矛盾しています。主権国家であることと軍隊を持たないことの間にも矛盾がある。この葛藤に苦しむことを通じて日本は国として成熟するはずだったのです。でも、残念ながら、これは日本人が選んだ葛藤というよりはむしろアメリカ人がセットしてくれた葛藤です。だから、いまだにその葛藤が血肉化されていない。

 そのせいで、日本には国としての「大黒柱」になるものがありません。戦後の焼け跡に、その辺から拾ってきた材料で立てられたバラックのようなものです。高度成長のせいで、途中でずいぶん立派なバラックにはなりましたが、シャンデリアとかステンドグラスとか豪華なソファーとかは並んでいても、どこにも大黒柱がない。玄関もない、床の間もない。バラック暮らしに慣れて、大黒柱の立て方も鴨居のつけ方も畳の敷き方も障子の貼り方も忘れて、とうとう日本らしい家がどういうものか分からなくなってしまった。悲しい話です。

 

― 内田さんは『日本辺境論』(新潮新書)で、日本は辺境国として先進国の文明を受け入れることで発展してきたと書いています。しかし、いまの日本は「辺境」であることすらできなくなっている気がします。

 

内田 辺境では、ケーキのように土着文化の土台(生地)の上に舶来の文明(デコレーション)をトッピングして「ハイブリッド」を創るんです。土台とトッピングがうまくなじむと結構いい感じのものができる。でも、いまの日本はそういう「辺境のスキーム」すら使えなくなっています。土着文化の「ケーキ生地」そのものがもう薄くなって、ぼそぼそになってしまったからです。ぺらぺらの、味もないケーキ地の上に、どんな外来のトッピングをしたって、美味しいものはできません。だから、問題は、どうやってもう一度土着の文化を取り戻して、外来のものを載せることのできる厚みのある、味わい深い「ケーキ生地」を作るかということなんです。

 ご存じの通り、僕は合気道や剣術のような武道を稽古し、能楽を稽古し、禊祓いや滝行などの行もしていますけれど、これは日本の伝統文化を次の世代に引き継がなければいけないという使命感を持ってやっていることです。日本の伝統文化は、、行住坐臥の身のこなしのうちに、それこそ服の着付けとか、儀礼とか、箸の上げ下ろしに至る日常の一挙手一投足のうちに宿っています。ですから、伝統的な身体の使い方、心の使い方を学び知れば、おのずと日本人らしい考え方感じ方は身につくはずなんです。

 この伝統文化がさきほど言った「土着のケーキ生地」になる。その生地に厚みと奥行きがないと、辺境の文化は開花しない。ネットでどれほど排外主義的な言動を繰り返そうが、街宣で外国人を罵倒しようが、そんなことをしても伝統文化の継承には何の役にも立たない。一人一人が、先人から「これは日本にとって大切なものだから、なくさないでね」とパスされたものがあるはずなんです。それは武道だったり、伝統芸能だったり、祭祀だったり、着物の着付けであったり、田んぼの耕し方だったりする。一人一人が自分に託された「パス」をしっかり次世代につなげてゆくこと、それが日本人にとってたいせつなことだと思います。

 

― ミルフィーユのように、国民一人一人が薄い生地を重ねて、土着文化の土台を分厚くしていくしかない。

 

内田 みんなで手分けして、畳を敷いたり、障子を張り替えたりしているうちに、いつか小汚いバラックを質素な日本家屋に建て替えることもできるかも知れない。その家が建ったときに、国の大黒柱になるような日本の価値観もおのずとかたちづくられると思います。

11月4日 聞き手・構成 杉原悠人)