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内田樹さんの「『夜明け前(が一番暗い)』あとがき」 ☆ あさもりのりひこ No.1280

今の日本の指導層の方々は悪いけれど「落ち目の国に最適化して、貧乏慣れした」人たちです。だから、彼らはもう日本をもう一度なんとかするという気はありません。もう日本に先はないんだけれど、公共的リソースはまだまだ十分豊かである。だから、公権力を私的目的のために運用し、公共財を私財に付け替えている分には、当分は「いい思い」ができる。そういう自己利益優先の人たちばかりで政治や経済やメディアがいまは仕切られています。

 

 

2022年12月9日の内田樹さんの論考「『夜明け前(が一番暗い)』あとがき」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

みなさん、最後までお読みくださって、ありがとうございました。

 読んで、どういう感想を抱かれましたか。僕はゲラを通読してみて「悲観的な話が多いけれど、それほど気持ちが暗くもならない」という印象を持ちました。自分の書いたものについて「印象を持ちました」というのも変ですけれど。

 日本の現状がかなり悲惨なものであることは間違いありません。国際社会におけるプレゼンスも、経済力も、文化的発信力も、あきらかに低下しつつある。これはどんな指標を見ても明らかです。

 でも、これがシステムの全面的な壊死なのかというと、そうでもないような気がします。「日の当たる場所」はかなり悲惨な状況ですけれども、「日の当たらない場所」ではもう新しい活動が始まっているように思えるからです。すでに歴史は「次のステージ」に入っている。でも、「日の当たる場所」にいる人たち(昔風に言うと「エスタブリッシュメント」ですね)は、その潮目の変化にまだ気づいていない。

 それを感じたのは少し前に、知人の結婚披露宴に呼ばれた時のことです。知人の結婚相手はパン作りの若い女性でした。その関係で、披露宴で僕のすわったテーブルは新婦の「パンの師匠」と、同門の若いパン職人たちでした。その人たちの話がとても面白かった。みなさん同じ師匠について修業したあとに海外で修業を重ねてから、日本に戻って各地でパン屋を開業している方々です。細かい技術的なことは僕にはわかりませんけれど、彼らがあっさりと「日本のパンは世界一ですから」と言い切ったときに、はっと胸を衝かれる思いがしました。「いま、フランスのパン職人たちが必死に工夫しているのは、僕らがすでに10年前にやったことです。日本のパンは10年のアドバンテージがある。」そう言ってにっこり笑いました。

 こういうタイプの言明を聴いたのは、ずいぶん久しぶりのことでした。

 1960年代から80年代まではたしかに、「僕らの仕事が世界一ですから」とまるで「今日は天気がいいですね」くらいのカジュアルな口調で語る人たちにしばしば遭遇しました。ほんとうにそうだったんです。商社でも、メーカーでも、メディアでも、大学でも、エンターテインメントでも、「気がついたら、僕たちがしていることが世界標準になったみたいですね」という話をよく耳にしました。たしかに、そうでなければ敗戦から短期間に世界第二位の経済大国に急成長するというようなことは起こるはずがありませんから。

 寂しい話ですが、そういうことがほぼまったくなくなって30年近く経ちました。ですから、今の40歳以下の人たちは、「日本人がさまざまな分野で世界をリードしていた時代」というものをリアルには想像できないと思います。そんなことを年上の人が言っても「年寄りの愚痴」にしか思えないとしても不思議はありません。

 でも、国運というのは「上がったり、下がったり」するものなんです。古希を過ぎてまで長生きするとそのことがよく分かります。

 僕は敗戦の5年後の生まれです。中学に入るくらいまでは「戦争に敗けてたいへん貧しくなった国の国民」というのが自己認識の初期設定でした。子どもの頃に母親に何か買ってくれとねだるとほぼ必ず「ダメ」と言われました。「どうして」と訊くと、「貧乏だから」と母が答え、「どうして貧乏なの」とさらに訊くと「戦争に敗けたから」と言われて、それで問答は終了しました。そういうのが60年代の初めくらいまで続きました。

 でも、それから空気が変わった。何となく「このままゆくと世界標準にキャッチアップできるんじゃないか」という無根拠な楽観が社会に漂い始めた。

 伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』は1965年の本です。『北京の55日』や『ロード・ジム』に出演した国際派俳優がそのヨーロッパでの生活を記したエッセイです。この本で僕たち敗戦国の少年は「ジャギュア」の運転作法や「アル・デンテ」の茹で方や「ルイ・ヴィトン」という鞄の存在を知りましたが、それはもうそれほど遠いものではなく、「あとちょっとしたら、僕たちにも手が届きそう」なものとして伊丹さんは僕たちに提示してくれた。そして、実際にその数年後に僕は赤坂のパスタ屋で、「ボロネーゼをアル・デンテで」とか注文していたのでした。

 先日、大瀧詠一さんと山下達郎さんがNHKFMでやっていた「新春放談」の古い録音を聴いていたら(1985年のお正月の放送でした)、山下さんが「最近、歌謡曲の人が、ニューヨークで録音するでしょう。音楽的に必然性があるならわかるけれど、ただニューヨークの方がスタジオ代が安いからというのでは」と語っているのを聴いてびっくりしました。都心のスタジオで録音するより、ニューヨークに行って、向こうのエンジニアを使った方が「安上がり」という時代が35年ほど前にはあったんです。

 1980年代終わり頃バブルの全盛期には、日本人はお金があり過ぎて、買うものがなくなり、とうとうマンハッタンの摩天楼や、ハリウッドの映画会社や、フランスのシャトーや、イタリアのワイナリーまで買うようになりました。「こんな無意味な蕩尽をしていると、そのうち罰が当たるぞ」と僕は思っていましたが、やっぱり予想通りになりました。図に乗ってはいけません。

 罰が当たって30年、日本は少子化・高齢化という人口動態上の負荷もあって、「落ち目の国」になりました。

 今の日本の指導層の方々は悪いけれど「落ち目の国に最適化して、貧乏慣れした」人たちです。だから、彼らはもう日本をもう一度なんとかするという気はありません。もう日本に先はないんだけれど、公共的リソースはまだまだ十分豊かである。だから、公権力を私的目的のために運用し、公共財を私財に付け替えている分には、当分は「いい思い」ができる。そういう自己利益優先の人たちばかりで政治や経済やメディアがいまは仕切られています。

「貧乏慣れ」した人たちというのは「日本が貧乏であることから現に受益している人たち」です。ですから、彼らは現状が大きく変わることを望んでいません。このまま日本がどんどん貧乏になり、国民が暗く、無力になり、新しいことが何も起きない社会であることの方が個人的には望ましいという人たちが今の日本ではシステムを設計し、運営している。

 でも、僕はこんなことがいつまでも続くとは思いません。

「落ち目の国」という環境に最適化して、「貧乏慣れ」して受益している人たちは、限りある資源を必死で切り取り合っているわけですから、分捕り合いに参加する人間はできるだけ少ない方がいい。だから、「落ち目の国のエリートたち」はしだいに頭数が減ってゆきます。そして、「落ち目の国の下層民」身分に押しやられた多数派の人たちは「できたら、もうちょっとましな国になって欲しい」と願っている。

 多くの人が強く願うことは実現する。これは長く生きてきて僕が確信を持って言えることの一つです。問題は「多く」と「強く」という副詞のレベルにあります。原理の問題ではなくて程度の問題なんです。

 かつて敗戦の瓦礫から立ち上がったように、また手持ちのわずかなリソースを使い回して、もう一度「僕らがやってること、とりあえず世界の最先端ですから」というような台詞がさらっと口から出るような時代に出会いたいと僕は思っています。

 そして、それは決してそれほど難しいことじゃない。

 もちろんAIとか創薬とか宇宙開発とか、そういう「やたら金がかかり、当たるとどかんと金が儲かる」領域では無理でしょうけれども、食文化とかエンターテインメントとか芸術とか学術のような、日本に十分な蓄積があり、かつ「新しいこと」を始めるのに、多額の初期投資とか、「えらい人たちへの根回し」とかが要らない分野でしたら、すでにそういう言葉が口元に出かかっているという人たちはいるはずです。

 僕らがそれを知らないのは、既成のメディアが「貧乏慣れ」して、ほんとうの意味での「ニューズ」に対する感度が鈍っているからだと僕は思います。

 そういう未来への期待を込めて、本書のタイトルを撰しました。みなさんも、一緒に「強く願って」くださいね。

 

2022年12月

 

内田樹