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内田樹さんの「『生きづらさについて考える』単行本あとがき」(その2) ☆ あさもりのりひこ No.1283

僕たちは今も「戦勝国」アメリカの属国身分に甘んじ、日米地位協定という「不平等条約」を呑まされ、国土を外国軍が我が物顔に歩き回るのを指を咥えて見ていなければならない。

 

 

2022年12月12日の内田樹さんの論考「『生きづらさについて考える』単行本あとがき」(その2)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 日本のベビーブームはご存じの「団塊の世代」、1947年から49年、戦争が終わってすぐに、どっと子どもが生まれました。年間260万人超えが3年続いたのです。

 ドイツでも戦後にベビーブームが始まってそれが63年まで続きました。イタリアもドイツとほぼ同じで65年まで出生率は上がり続けました。戦後すぐは敗戦国でも、子どもたちはどんどん生まれた。まるで戦死者たちの分を取り返すような勢いで子どもが生まれた。

 僕は1950年生まれ、「団塊の世代」の尻尾です。その時代の子どもの多さをよく覚えています。小学校の教室が足りなくて、最初のうちは「二部授業」をしていたくらいですから(午前と午後で入れ替え制だったんです)。

 僕は東京の南西のはずれの工場街の中学校に通ってましたけれど、1クラス50人超で、僕の学年が8クラスでした。2つ上の学年は10クラスありました。とにかく子どもの数が多かった。

 でも、どこも家は貧しかったんです。井戸水汲んで、たらいに水溜めて洗濯板で洗濯して、暖房は火鉢だけ。そういう「共和的な貧しさ」の中で、東京でも地域の共同体は助け合いながら、わりと機嫌よく暮らしていた。

 機嫌がよかったのは、みんな貧しかったけれど、自由だったからです。長く戦争が続いた後に、ようやく平和が訪れた。もう兵隊にとられることもなくなったし、空襲もなくなったし、特高も憲兵隊も治安維持法も隣組もなくなった。1930年代から長く続いた重苦しい「戦争の時代」が終わった。もう戦争で死ぬ心配もなくなったし、もう強権で抑圧的な政治体制に怯える必要もなくなった。そのことにみんな心底「ほっとしていた」のです。

 父親たちが酒を酌み交わしているときに、何かのはずみで戦争の話になったときに、「でも、敗けてよかったじゃないか」という言葉が口にされるのを僕は何度か聞いた覚えがあります。それは比較的穏やかな口調で語られ、そのフレーズが出ると、そこで戦争の話は終わりました。

 小津安二郎の『秋刀魚の味』のことは本書の初めの方にも出てきますが、「敗けてよかったじゃないか」というのは戦後のある時期までは、戦中派の人たちにとってはずしんと腹にこたえるような説得力のあるフレーズだったのです。「敗けてよかった」というのは、戦争で死ぬ恐怖と、強権的な政府に弾圧される恐怖の二つの恐怖から解放されたということです。それが日本の若いインテリたちの偽らざる実感だった。

 つまり、その時点では、日本の敗戦は決してトラウマ的な経験、屈辱的な経験としては受け止められていなかったということです。

 敗けたおかげで自分は死なずに済んだ、自由で民主的な社会が実現した、言論の自由も集会結社の自由も、信教の自由も手に入れた。とにかくやっと手に入れたこの自由を思い切り享受しよう。

「戦勝国に恵んでもらった自由なんかうれしがるな。押し付けられた憲法なんかありがたがるな」というような話をしている人はその時代の日本にはいませんでした。いたのかも知れないけれど、ほとんど声にならなかった。今僕が「」で括ったようなことを言い出したのは60年代半ばの江藤淳ですが、江藤は敗戦のとき12歳でした。

 敗戦直後の日本というと、必ず「リンゴの唄」が流れている焼け跡の闇市の映像が使われます。その画面の中の人々の「明るい顔」に僕たちは驚かされます。そこから知れるのは、敗戦がうれしいくらいに戦争がつらかったということです。

 その明るい気分は僕の記憶にも残っています。敗戦からしばらくはそうでした。楽観的で向日的な雰囲気が世の中にはありました。少なくとも、60年代末までは「りんごの唄」的な明るさの残り香は日本社会のどこかに漂っていました。70年代くらいからそういう穏やかな気分が消えて、社会が殺伐としてくる。でも、高度成長期からバブル経済にかけての時期ですから、みんな顔つきは殺伐としているけれど、金だけは潤沢にあった。金さえあれば何でも買えるという奇妙な多幸感の中で、敗戦のことなんか誰も考えなくなった。そして、90年代にバブルが崩壊したあと、ふと気づいたら日本が「暗く」なっていた。それは直接的に「金がなくなった」からではないと思います。だって、バブル崩壊からさらに20年間、日本は世界第二位の経済大国であり続けたんですから(中国にGDPで抜かれたのは2010年のことです)。お金はあったんです。でも、社会はどんよりと暗くなった。

 僕はその頃から「敗けてよかったじゃないか」という気分が失せて、「日本がこんなふうになったのは、すべて戦争に敗けたせいだ」という恨みがましい気分が社会全体に瀰漫したせいではないかという気がします。そんなこと僕の他に言う人はいませんけれど、さっきの「中央年齢リスト」を見て、ふとそう思ったのです。

「自虐史観」という言葉が出て来た頃に日本が「どよん」と暗くなったような気がします。もちろん「自虐史観」が社会を暗くしたわけではありません。逆です。彼らは日本社会の根っこの部分にある種の致命的な「弱さ」を感じ取って、その原因が「敗けてよかったじゃないか」というなげやりな言葉で敗戦経験を総括したことにあると感じた。そして「そういう考え方は自虐的だ」と言い出したのです。

 歴史修正主義者の中に戦争経験者はいません。これはドイツでもフランスでも同じです。子どものときに敗戦を迎えた人はいますけれど、徴兵されて戦場に立った、空襲の中を逃げ惑ったという経験をもつ人はいません。実際に戦争で死ぬ覚悟をしていた人たちは、戦争が終わって、自分たちを戦場に送り出すシステムがなくなったことに深く安堵した。たしかに、祖国の敗北は悲しいことですけれど、それより自分自身や自分の愛している人たちががもう死なずに済むことの方がうれしかった。だから、戦争体験者にとって敗戦は屈辱でもトラウマ的経験でもなかった。

 ところが、敗戦をリアルタイムで経験していないその後の世代には、敗戦を端的に「よいこと」として肯定するような個人的根拠がありません。敗戦の玉音放送を聴いて、ぼんやりと青空を見て「もう死なずに済んだ」と深い嘆息をついたような経験がありません。

 この「敗戦の報を安堵感のうちに経験した」かどうか、その経験の存否が、実は大きな世代的断絶を敗戦国民にもたらしているということはないのでしょうか?

 

 僕たち戦後世代にとっては「経験の欠如」という経験です。

 いまの自分たちの社会の根本的なかたちを決定した歴史的大事件でありながら、敗戦のときに何があったのか。GHQは敗戦国日本をどう変えようとしたのか、そのためにどのような工作があり、密約があったのかについて、僕たちは「公式の歴史」というものを共有していない。戦中派の大人たちは、そのことについてはかたく口を噤んでいた。

 どうして、どんなふうに敗けたのか、どうして敗戦国日本は「こんな国」になったのかについて、納得のゆく説明を聞かされないままに、僕たちは今も「戦勝国」アメリカの属国身分に甘んじ、日米地位協定という「不平等条約」を呑まされ、国土を外国軍が我が物顔に歩き回るのを指を咥えて見ていなければならない。中国や韓国や北朝鮮はことあるごとに日本が戦前戦中に彼らの土地でどれほど非道なことをしたのか、それについて反省と賠償を求める。戦争を始めたのも、戦争に敗けたのも、僕たちじゃないのに、敗戦国民としての道義的責任と政治的責任だけは「時効なし」で僕たちに負わされる。

 この敗戦国民であることのもたらすフラストレーションを、敗戦を成人で経験した世代は知らなかった。でも、敗戦の解放感や安堵を経験していない世代には、このフラストレーションは恐るべき毒性を持っていた。

 

 同一経験の世代による受け止め方の違いということを、僕たちは過小評価していたのではないか。そんな気がします。