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内田樹さんの「『生きづらさについて考える』単行本あとがき」(その3) ☆ あさもりのりひこ No.1284

戦争というのは、それが終わってから何十年も、場合によっては何百年も、それにかかわった人々とその子孫たちにとってある種のトラウマとなり続ける

 

 

2022年12月12日の内田樹さんの論考「『生きづらさについて考える』単行本あとがき」(その3)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 戦中派には実際に自分たちが戦争中に占領地で「非道なことをした」という実感がありました。僕の父は中国との国交回復のあと、日中友好協会に入会して、たくさんの中国人留学生を家に迎え、保証人になり、金を貸しましたが、その理由を母親に問われたとき、「われわれは中国人には返しきれないほどの借りがあるのだ」と言っていました。

「あなたがたにはほんとうに申し訳ないことをした。償わせて欲しい」と中国人に向かって告げることは父にとっては苦痛ではなかった。むしろ贖罪の機会を得たことをありがたく思っていたように僕には見えました。

 でも、僕らは違います。侵略して、非道なことをした記憶もない。戦争が終わってほんとうによかったという実感もない。にもかかわらず敗戦国民としての戦争責任だけはエンドレスで追ってくる。

 敗戦について、僕たちの世代が取り得るスタンスは二つしかありません。「戦争にかかわるすべての責任をわれわれは引き受け続けます」と戦中派にならって首を垂れ続けること。アメリカにも中国にも韓国にも台湾にもフィリピンにもインドネシアにもベトナムにもオランダにもイギリスにもオーストラリアにも、行く先々で謝り続けることです。こちらが「政治的に正しい」作法です。

 そして、もう一つは「知るかよ、そんなこと」と居直ること。「あれはよい戦争だった」とか「あの戦争についてアジア民衆は日本に感謝している」とか「あの戦争に日本は実は勝っていたのだ」というようなでたらめを言い募って、戦争責任をまるごと放棄すること。こちらは「政治的に正しくない」作法です。

 そのどちらかを選ばなければならない。

 でも、そんな選択肢は敗戦をリアルタイムで経験した世代には突きつけられていなかった。さくっと「敗けてよかったじゃないか」で済んだ。これは彼らの後から来た世代にとってだけ切実な問いなのです。

 

 加藤典洋・高橋哲哉の間の『敗戦後論』をめぐる論争があったのは、1995年です。メディアを賑わせて多くの人が賛否の立場で発言した論争でした(僕の『ためらいの倫理学』という物書きデビュー作は『敗戦後論』の書評を核にして編まれたものでした)。そのとき、論争に熱狂していたせいで、「どうして今になって敗戦が問題になるのだ?」という問いだけが誰によっても立てられなかった。

 この論争のもう一つの歴史的意味は、敗戦をどう受け止めるかについての国民的合意が、それまでは無言のうちに日本国民に共有されていたけれど、それが95年頃に失われたということではないかと僕は思います。

 95年頃に、僕たち戦後世代は、敗戦に向き合うときに「政治的に正しい」作法か「政治的に正しくない」作法か、どちらを選ばなければならないというきわめて定型的でストレスフルな選択を迫られるようになった。加藤典洋はそれに対して「第三の道」はないのかという提案をした。「第三の道」を見つけないと、日本人がもう一度「明るく」なることはできないのではないか、彼はそう考えたように僕には思われます。「政治的に正しい道」も「政治的に正しくない道」も、どちらも日本人を深く疲弊させ、日本人の思考を停止させ、遅速の差はあれ、いずれ国力を蝕んでゆく結果しかもたらさない、そう思ったのではないか。でも、加藤の努力にもかかわらず、敗戦経験・戦後経験についての国民的合意は今にいたるまで達成されていません(それを独力で果たそうとした加藤典洋は先日志半ばで亡くなりました)。

 

 僕はこれと同じようなことがすべての旧枢軸国が起きたのではないか・・・という気がしたのです。

 どの敗戦国でも、ある時期までは「敗けてよかった」という実感が支配的であった。人々は貧しいけれど明るく、日々はつらいけれど明日に希望があった。だから、子どもが生まれた。でも、ある時期から「つらいけれど、倫理的な責務に耐えるべきだ」派と「うるせえな。倫理なんて知らねえよ。俺は絶対謝らないからな」派に国民が二分された。日本における左翼リベラルと右派ネトウヨの分断はまさにその通りのものですが、ドイツでも、イタリアでも、ほとんど同じような国民分断が起きていると思います。どちらの道を行くにせよ、「笑顔がなくなる」ことだけは一緒です。

「リンゴの唄」と闇市の人たちの笑顔は「敗けた代わりに手に入れたもの」がもたらしたものです。でも、僕たち敗戦から数十年経った敗戦国民には「敗けた代わりに手に入れたもの」がありません。「敗けたせいでさらにこれからも失い続けてるもの」だけしかない。

 その虚無感が敗戦から一定期間が経ったあとの敗戦国民の「暗さ」を作り出している。そのせいで敗戦国民は自己肯定感をもつことができない。自分の国に対して、その「ありのまま」に対して物静かな敬意や、控えめな誇りをもつことができない。何か細工を加えて、装飾して、別のものに仮装してみないと「自分の国」を取り扱うことができない。

 それがたぶん敗戦国民が敗戦から一定時間経ったあとに罹患する病なのではないかと思います。

 

 国民が構造的に「自己肯定感の欠如」に苦しんでいる以上、子どもが生まれるはずがない。それが中央年齢の病的な上昇として結果しているのではないか・・・というようなことを僕は先ほどの中央年齢リストを見ながら考えたのでした。

 だからどうした、だから、どうすればいいのか、というような話では別にありません。何となく、そう思った、というだけのことです。

 戦争というのは、それが終わってから何十年も、場合によっては何百年も、それにかかわった人々とその子孫たちにとってある種のトラウマとなり続けるという「言われてみれば、そうかも知れない」というような話です。

 

 どうして時事的なことを話すと「暗く」なるのかの理由について個人的な仮説を立ててみました。仮説を立てたからと言って、ただちに気分が明るくなるというものではありませんが、それでも「暗さの原因」が分かると、「じゃあ、次に打つ手を考えてみようか」という気分に少しはなるんじゃないでしょうか。

 はい、長い話にお付き合いくださって、ありがとうございました。

 

 最後になりましたが、出自さまざまなテクストを選択、配列して、リーダブルな書物に仕上げてくださいました毎日新聞出版社の峯晴子さんにお礼申し上げます。ありがとうございました。

 

2019年6月

 

内田樹