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内田樹さんの「『属国民主主義論』あとがき」 ☆ あさもりのりひこ No.1290

「ひっかかる」パターンはふつう二つあります。一つは「どうして、『こんなもの』がここにあるのか?」、一つは「どうして、『あれ』がここにないのか?」です。「場違いなものがある」という場合は感知しやすいのですが、「あってよいはずのものがない」というのは見落とし易い。

 

 

2022年12月29日の内田樹さんの論考「『属国民主主義論』あとがき」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

みなさん、こんにちは。内田樹です。

 白井聡さんとの対談本『属国民主主義論』は2016年に東洋経済新報社から刊行されたものですが、今度朝日新聞出版から文庫版として出してもらうことになりました。6年前に日本の政治の現実について論じた本が今でもまだリーダブルであるという評価を頂いたことをとてもうれしく思っています。

 ふつうは政局について書かれた本の賞味期限は長くてせいぜい1年というくらいです。そういう本の多くは「世間の人は知らないが、真相はこうなのである」という「事情通と素人の情報収集力の水位差」が主な売り物になります。でも、この「水位差」はあまり持続しません。というのは「真相はこうなのである」ということを公開することによって「世間の人は知らないが」という前提が崩れてしまうからです。「人が知らないことを知っている」ということのアドバンテージはそれを失うことによってしか機能しない。逆説的ですけれど、世の中って割とそういうものなんですよね。もちろん「人が知らないことをいち早く知っている人」であるという世評を獲得すれば、ご本人はそれを生業にできます。でも、その人の書く本が長くリーダビリティを保つということはありません。

 ですから、6年経ってもまだ「読むに堪える」というのは、この本の「読み甲斐」は「事情通と素人の情報収集力の水位差」に存するのではない、ということを意味している。そう言ってよいと思います。

 白井さんは政治学者ですから、実際に政治家やジャーナリストたちとよくお会いになっています。だから、「世間の人が知らない『ここだけの話』」にも僕よりははるかによく通じています。でも、本書が主題にしているような日米関係の意思決定プロセスについて直接見聞する機会はさすがにないと思います。その部分は白井さんでも推理する他はない。

 僕は閑居して妄想を逞しくしている「街場の人」ですから、公開情報以外は何も知りません。うちに来る新聞や雑誌をぱらぱらと読んでいるだけです。それでも、けっこういろいろなことは分かります。

 こういうのを「オシント」と呼ぶのだということを最近新聞で教えてもらいました。「オシント」はOpen source intelligence の略語で、合法的に入手できる公開資料だけに基づいて「ほんとうは何が起きているのか」を推理することだそうです。なるほど。

 そう言われてみると、僕は昔からずっと「オシントの人」でした。10数年前に『街場の中国論』という本を出した時に、公安調査庁の人が僕に会いに大学まで来ました。たいへんフレンドリーな「聴き取り」でしたけれども、調査のポイントは「あなたは中国共産党の内部事情についての情報をどうやって手に入れているのか」ということでした。僕が「え? 毎日新聞からですけど」と答えたら、びっくりしてお帰りになりました。

 僕が中国共産党の党内事情なんか知っているわけがないじゃないですか。そんなことをこっそり僕だけに教えてくれる親切な「インフォーマント」なんかこの世にいません。でも、ふつうに新聞記事を読んでいれば、今中国共産党内部でどんなことが議論されていて、どんな論争や確執があるのかくらいのことはだいたい想像がつきます。

『街場の中国論』はその後、中国の出版社から中国語訳のオファーが来ました。ただ、「文化大革命」と「少数民族」についての章を削除して翻訳したいという条件だったので、お断りしました。でも、中国語訳を出したいというオファーがあったという事実から推して、その本の記述には中国人読者が「無知な日本人が的外れなことを言っている」と怒り出すようなことはあまり書かれておらず、削除を求められた二章には「中国人には読ませたくないこと」が書かれていたと考えられます。オシント侮るべからず。

 本書がもしこれからもリーダブルであり続けることができるとしたら、それは白井さんと僕の話していることがもっぱら「公開情報のみに基づいて、その背後で何が起きているのかを推理する」というものだからだと思います。僕たちが読者に読み取って欲しいのは僕たちの「知識」の量ではありません(僕の方には「知識」そのものがありませんし)。そうではなくて、読んで欲しいのは僕たちがどういうふうに「推理」しているかです。たぶん白井さんも同じことを望んでいると思います。

 ですから、この本は「推理小説のようなもの」だと思っていただけたらよいと思います。推理小説の場合、「犯人は誰だ」という「真相」の開示よりも、「どうやって探偵はこの人が犯人だとわかったのか」という推理の理路の意外性の方に読者は興味を持ちますし、作家もそこに工夫を凝らします。たぶん僕たちも無意識のうちにそういう探偵のしぐさを見習っているのだと思います。つまり、公開情報のうちにあって、ふつうの人がつい見過ごしてしまうような些細な事実のうちに「なんかひっかかるもの」を感知する。

「ひっかかる」パターンはふつう二つあります。一つは「どうして、『こんなもの』がここにあるのか?」、一つは「どうして、『あれ』がここにないのか?」です。「場違いなものがある」という場合は感知しやすいのですが、「あってよいはずのものがない」というのは見落とし易い。シャーロック・ホームズが『白銀号事件』で犯人を当てる手がかりにしたのは「どうしてあの晩に限って犬は吠えなかったのか?」という「起きなかった出来事」でした。

 これはたぶん白井さんと僕に共通する「推理」の傾向ではないかと思います。二人とも「起きた出来事」と同じくらいの関心を「起きなかった出来事」にも向けているからです。

「なぜ日本に民主主義は定着しなかったのか?」「なぜ日本はアメリカの属国から脱却できないのか?」「なぜ日本人は自力で日本国憲法を起草できるほどの市民的成熟に達しなかったのか?」などの一連の問いです。これらはすべて「起きてもよかったことであるにもかかわらず起きなかったこと」です。二人ともそれが気になる。だから、「起きてもよいはずのことがなぜ起きなかったか」を考えた。そうやって得た「ストーリー」が世の人の気持ちを逆なでするような棘のあるものだったとしても、それは仕方がありません。

 ただ速報的に「ニューズ」を追っている限り、僕たちは永遠に現実に対して「後手に回る」ことになります。つねに現実に遅れてしまう。僕はわずかでいいから現実の「先手を取りたい」。そのためには生起している出来事がどういう「文脈」の中で起きているのかを知らなければならない。僕が「ストーリー」と言っているのは、その歴史的な「文脈」のことです。

読者のみなさんが、この本を読むことがきっかけになって、それぞれの仕方で「推理」を始めてくださることを僕は願っています。

 

 

 最後になりましたが、いつも刺激的なアイディアで老生の頭を活性化してくださる白井聡さんに改めて感謝申し上げます。朝日文庫化に際してご尽力いただきました長田匡司さん、上坊真果さんにお礼申し上げます。(2022年1月13日)