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内田樹さんの「朝日新聞のロングインタビュー「子どもに夢を語らせてはいけない」」(前編) ☆ あさもりのりひこ No.1299

「師」というのは、弟子の側が自分で作り出すある種の教育的な幻想だ

 

 

2022年12月29日の内田樹さんの論考「朝日新聞のロングインタビュー「子どもに夢を語らせてはいけない」」(前編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

分野の境界を超えた論考で読み手の知的好奇心を刺激する哲学者・内田樹さん(71)。「とにかく勉強することが好き」といい、その本質を「自己解体」であると語ります。2016年に他界した兄・徹さんから伝えられた大切な言葉とともに、貫いてきた学びの姿勢を聞きました。

 

―文章を書く際、「想定読者」と位置づける存在がいるそうですね。

 

内田 ものを書くときに想定している読者は2人いて、一人は小学生の頃からの友人である平川克美君。もう一人は2歳上の兄・徹です。兄は6年前に亡くなりましたが、今でも、兄が読んで納得してくれるものを書くということを心がけています。

 

―お兄さんは、どんな存在だったのですか。

 

内田 小さい頃はやたら構ってくるので、「うっとおしい兄だな」と思っていましたけれど、中学生くらいからだんだん仲良くなりだしました。特に、兄がギターを弾くようになって、ロックに熱中してからですね。兄がシングル盤を買ってきて、僕を部屋に招き入れて、「とにかくこれを聴け」とうるさく勧めるのです。キャロル・キングも、エルヴィスも、ビートルズも、ジョン・コルトレーンやマイルス・デイヴィスも、全部兄が「いいからこれを聴け」と言って、僕に無理やり聴かせたものです。でも、結果的にはそれが僕にとっての音楽的な滋養になった。

 あとは映画ですね。自分で観て面白いと思った映画はどこがよかったのか何度も何度も話すので、僕も観ないわけには行かない。

 さらに親密になったのは20代の終わりころです。兄は早稲田に入ったのですが、1970年の学生運動の時代ですから、ろくに授業もない有様でしたから、大学の水に合わなかったようで半年ほどで学校に行かなくなりました。そのあと、父親が経営していた建設機械の会社で数年間働いた後、30歳頃に一人で起業しました。

 横浜に小さなオフィスを構えたけれど、社員が一人もいないので、大学院生だった僕に「電話番をやってくれ」と頼んできました。僕は博士課程に進学した頃で、時間の自由がきいたので、週3回ほど事務所に通いました。電話番と言っても、起業したばかりですから、ほとんどかかって来ない。これ幸いと、無人の静かなオフィスで、ひたすら本を読み、翻訳をし、論文を書いていました。

 昼になると兄が外回りから戻ってきて一緒に昼食を食べに出かけ、帰り道でお茶をしたり、本屋に寄ったりして、話が盛り上がると、そのままオフィスで夕方まで話し込んでいたこともあります。

 兄はどんな話題でも面白がってくれました。ですから、自分の研究しているテーマでも、ちゃんと聴いてくれた。僕はその頃すごくマイナーなフランスの政治思想や哲学を研究していたんですけれど、そういうまったく関係のない話でも熱心に聴いてくれた。ついこっちも図に乗ってどんどん話してしまう。何を話しても受けてくれるという「甘い客」だったんです。だからのちに本を書くようになった時に自然と兄を想定読者に書くようになりました。

 

―お兄さんは内田さんをどう見ていたのでしょう。

 

内田 「保護者」という感覚も多少はあったんと思います。僕は6歳のときに心臓を患って、小学校のときはほとんど「運動禁止」という虚弱児でした。だから、兄にはこの弱っちい弟を自分がかばってやらなければという意識があったんだと思います。それから年を重ねるなかで二人は違う方向へ進んでいくわけですが、手塩にかけて育てた弟が、自分の知らない知恵をいろいろ身につけてはしゃべってくるのがおもしろいという感じだったのかな。

 

―そんなお兄さんから言われた、印象的な言葉があるそうですね。

 

内田「おまえは『弟子上手』だよな」と言われました。十数年前のことだと思います。20年ほど前から兄や平川君ら仲の良い友人たちと、年に2回くらい箱根温泉の宿で集まって、温泉に入って、美味しいものを食べて、飲んで、麻雀をしてという催しを始めました。そのおしゃべりの間に何かのはずみで兄が口にした言葉でした。「おれとおまえで一番違うところは、おまえには先生がいたけれど、おれにはいなかったということだ」と。

 

―その言葉が心にとまった理由は?

 

内田 「なるほどな」と思いました。それまでそんなこと一度も意識したことがなかったのですが、言われてみるとまさにその通りで、腑に落ちた言葉でした。

 僕はその頃に「先生はえらい」(ちくまプリマ―新書、2005年)という本を書いているのですが、兄の言葉の影響もあったかもしれません。

 その本に書いたのは、「師」というのは、弟子の側が自分で作り出すある種の教育的な幻想だということです。「この先生は自分が一生かけて努力しても足元にも及ばないほどの叡智と技芸を会得している人だ」と信じて学ぶ人間と「この先生ははたして全幅の信頼を寄せるに足るだけの器量の人物なのだろうか」と疑いの眼差しを向けながら学ぶ人間とでは、同じ時間だけ努力した場合に、身につくものが決定的に違ってくる。

「偉大な師に仕える弟子」という位置取りは、自分の成長のためにはきわめて有効だと僕は自然に理解していたのですけれど、兄に言わせると、そんなことを思うやつは滅多にいないということでした。事実、兄は、ついに生涯「師」と呼べる人に出会えなかった。もちろん、それなりの見識を備えた人物には何度か出会っていると思います。でも、兄は「本当にこの人を信じてついていってよいのか」という疑念を振り払うことができなかった。

 僕はそういう疑念をあまり持たないんです。ある人を「先生」と呼ぶためにこちらからうるさい条件をつけない。「この条件をクリアしたら先生と呼んでもよい」というのはものを学ぶ側が採ってよい姿勢ではないと思うからです。

 

 卓越した師とは、弟子が「この世にそんなものがあるとは知らなかった知」を授けてくれる存在です。ですから、学ぶに先立って、弟子の側から「これを教えてください」とか「この程度の知識や技芸を会得したいんですけど」というふうに要求できるものではない。そして、僕が知らないこと、僕がそれを知らないということさえ知らないことに世の中は満たされているわけです。ですから、ある意味で、「人生至るところに師あり」ということになる。