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民主主義社会においても、市民的自由と社会的統制の間には矛盾が発生する。市民の自由はどういう基準で、どこまで抑制することが許されるか
2023年1月1日の内田樹さんの論考「ミルの『自由論』について」(前編)をご紹介する。
どおぞ。
週刊東洋経済が古典の再評価という特集をした。どんな本をお薦めしますかというので、ミルの『自由論』を選んだ。
J.S.ミル『自由論』(引用は斉藤悦則訳、光文社古典新訳文庫による)
【よみどころ】
「人民の意志というのは、じっさいには人民のもっとも多数の部分の意志、あるいは、もっともアクティブな部分の意志を意味する。多数派とは、自分たちを多数派として認めさせることに成功したひとびとである。それ故に、人民は人民の一部を抑圧したいと欲するかもしれないので、それに対する警戒が、ほかのあらゆる権力乱用への警戒と同様に、やはり必要なのである。」(18頁、強調はミル)
「人間が判断力を備えていることの真価は、判断を間違えたときに改めることができるという一点にあるのだから、その判断が信頼できるのは、間違いを改める手段をつねに自ら保持している場合のみである。」(53頁)
「人の意見は、それをほんとうに信じている人から直接聞くことができなければならない。本人なら自分の意見を熱心に語るし、なるべくこちらにわかってもらえるよう精一杯努力するはずだ。」(91頁)
「人は疑わしいと思わなくなったことがらについては、考えるのをやめたがる。それが人間のどうしようもない性向であり、人間のあやまちの半分はそれが原因だ。」(106頁)
「ふつう、対立しあう意見は、一方が正しく他方が誤りというより、どちらも正しい部分がある。常識的な意見に含まれる真理は部分的なものにすぎないため、常識に逆らうような意見も真理の残りの部分を補うものとして必要なのである。」(112頁)
「部分的な真理どうしの激しいぶつかり合い、それはけっして悪いことではない。真理の半分が音もなく静かに抑圧されること、これこそが恐るべき害悪なのである。」(127頁)
「どのようなテーマについても、一般に流布している意見が真理の全体であることはめったに、というかけっしてないのであるから、真理の残りの部分は、対立する意見がぶつかり合う場合にのみ、得られる可能性がある。」(128頁)
「われわれが論争するとき犯すかもしれない罪のうちで、最悪のものは、反対意見のひとびとを不道徳な悪者と決めつけることである。」(132頁)
「論争のどちらの側に立つ人であれ、主張のしかたが公平さを欠き、悪意や偏見や心の狭さを露(あらわ)にしている人は、誰であろうと非難される。ただし、その人がわれわれと反対の立場である場合、彼のそうした欠陥をその立場のせいにしてはならない。」(
【紹介】
『自由論』はイギリスの哲学者、経済学者ジョン・スチュワート・ミル(John Stuart Mill, 1806-73)の1859年の著作。アメリカ合衆国の建国によって欧米の人たちは「民主主義社会においても、市民的自由と社会的統制の間には矛盾が発生する。市民の自由はどういう基準で、どこまで抑制することが許されるか」というそれまで(王政や帝政の社会では)考える必要のなかった難問に直面することになった。『自由論』はその難問に対する原理的な考察である。残念ながら、ミルがこの本を書いてからもう150年以上経ったけれど、私たちはいまだにこの難問の答えを見出していない。