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内田樹さんの「希望の共産党」(後篇) ☆ あさもりのりひこ No.1334

私たちが成熟について知っている最もたいせつな経験則は「人は葛藤のうちで成熟する」ということである。

 

 

2023年2月2日の内田樹さんの論考「希望の共産党」(後篇)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 前に中国の新華社から取材を受けたことがある。私と石川康宏さんの共著『若者よ、マルクスを読もう』が中国語に翻訳されて、多くの読者を得たことについてのインタビューだった。私たちの本は中国共産党の「幹部党員への推薦図書」に指定された。なぜ、若者たちにマルクスの思想を噛み砕いて解説した本を書いたのが中国共産党の知識人ではなく、日本人なのか。それが不思議だったのだろう。最初の問いは「なぜ資本主義社会の日本にはマルクス主義を愛読する人がこんなに多く存在しているのか、その原因は何か?」というものだった。その問いに私はこう答えた。

 

「日本では、マルクスは政治綱領としてよりはむしろ『教養書』として読まれてきたという側面があるからだと思う。つまり、マルクスのテクストの価値を『マルクス主義』を名乗るもろもろの政治運動の歴史的な功罪から考量するのではなく、マルクスの駆使する論理のスピード、修辞の鮮やかさ、分析の切れ味を玩味し、読書することの快楽を引き出す『非政治的な読み』が日本では許されていたということである。

 だから、マルクスを読むことは日本において久しく『知的成熟の一階梯』だと信じられてきた。日本では、若者たちはマルクスを読んだからといってマルクス主義者になるわけではない。マルクスを読んだあと天皇主義者になった者も、敬虔な仏教徒になった者も、計算高いビジネスマンになった者もいる。それでも、青春の一時期にマルクスを読んだことは彼らにある種の人間的深みを与えた。少なくとも「与えた」と信じられていた。

 政治的な読み方に限定したら、スターリン主義がもたらした災厄や国際共産主義運動の瓦解という歴史的事実から推して、『それらの運動の理論的根拠であった以上、マルクスはもう読むに値しない』という判断を下す人もいて当然である。だが、日本ではそういう理由でマルクスを読むことを止めたという人はほとんどいなかった。それはマルクスの非政治的な読みが許容されてきたからである。それが世界でも例外的に、日本では今もマルクスが読まれ続け、マルクス研究書が書かれ続けていることの理由の一つだろうと思う。」

 

 日本における共産党の現実的な影響力についての質問にはこう答えた。

 

「日本共産党はマルクス主義政党だが、選挙で共産党に投票する人たちの多くはその綱領的立場に同調しているというよりは、党の議員たちが総じて倫理的に清潔であり、知性的であり、地域活動に熱心であるといった点を評価しているのだと思う。

 日本では1920年代以後現代にいたるまで、マルクス主義を掲げる無数の政治組織が切れ目なく存続し、マルクス主義に基づく政治学や経済学や社会理論が研究され、講じられてきた。マルクス主義研究の深さと広がりという点では、日本は東アジアでは突出している。マルクス主義者でなくても日本人の多くはマルクス主義の用語や概念を熟知しており、そのスキームで政治経済の事象が語られることに慣れている。それがわれわれのものの考え方に影響を与えていないはずがない。」

 

 このやり取りから知れると思うけれども、私は日本共産党が今日まで生き延び、存在感を示すことができた最大の理由は日本共産党が「共産主義の独占者」でなかったことにあると思っている。そういう考え方をする人が他にどれだけいるか分からないけれども、私はそう思っている。

 貿易のビジネスでは「総代理人(sole agent)」というものがある。その業者を経由してしか輸入できない独占的な代理店のことである。多くの国で、共産党は「マルクス主義の総代理人」たらんとした。そして、マルクスの読解やマルクス主義の綱領の解釈について決定し、「異端」を審問する権利を占有しようとした。レーニンとスターリンが国際共産主義運動を領導していた時代には、その指示の唯一の「窓口」であろうとした。世界各国の共産党がその特権的地位を求め、それを手に入れたせいでやがて衰退し、滅亡していった。私の眼にはそう見える。

 その中にあって日本共産党が生き延びることができたのは、「マルクス主義の総代理人」ではなかったからである。なろうとしても、なれなかった。それは上に書いたように、日本には共産党以外にもマルクス主義を掲げる多様な組織や運動体が存在し、共産党の公式解釈以外にもマルクスについて多様な解釈や理解が並立していたからである。

 そのような環境の中に置かれていたおかげで、日本共産党は「自分たちのニッチ」を探し出し、市民に向かっておのれの政治的有用性を訴え、その支持を懇請するという仕事を余儀なくされた。「総代理人」の免状を手に入れ、その地位に安住してしまったよその国の共産党にとっては不要な仕事だ。でも、日本共産党はその「余計な仕事」を果たさなければならなかった。結果的にはそれがよかったのだと思う。それがこの政党にある種の「市民的成熟」をもたらしたからである。

 金さんを驚かせたように、日本共産党が世界でもきわめて例外的な「国会に議席を持つ共産党」であり得るのは、日本共産党が「歴史を貫く鉄の法則性」によってその身元を永代保証された政党ではなく、そのつどの市民の支持のうちに足場を求めてきた政党だからであると私は思う。いわば、その「弱さ」が手柄だったのである。

 これから日本共産党がどういう組織を編成し、どういう運動を創り出してゆくのか、それは党員たちが決めることであり、私の関知することではない。でも、100年生き延びてこられたのは日本共産党が「原理的正しさ」より「市民的成熟」を選んだせいであると私は考えている。だから、その歴史的経緯をただしく評価すれば、このあとの進むべき道もおのずと明らかになると私は思う。

 私たちが成熟について知っている最もたいせつな経験則は「人は葛藤のうちで成熟する」ということである。それは組織についても同じだと思う。深い葛藤を抱えた組織は、そうでない組織よりも成熟するチャンスが多い。全党員が同じような顔つきをしていて、同じような言葉づかいで語り、指導者の命令に整然と従う一枚岩の政党を日本共産党は理想にしてはならない。そんな政党は短期的には効率よく稼働するかも知れないが、葛藤がない組織は成熟することができない。だから、いずれ環境の変化に適応できずに死滅するだろう。

 私が日本共産党に求めるのは「葛藤を通じて成熟できる組織」であることである。別に私がよけいなことを言わなくても、すでに日本共産党の方たちはそのことを歴史的経験を通じて熟知しているはずである。