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内田樹さんの「70年後のテレビ」 ☆ あさもりのりひこ No.1347

NHKはもうしばらくは「国営放送」(政権の広報媒体)として延命できるかも知れないが、民放はある時点でビジネスモデルとしては成立しなくなると思う。

 

 

2023年2月22日の内田樹さんの論考「70年後のテレビ」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

「70年後のテレビ」

 

 という不思議なお題を頂戴した。NHKがテレビ放送を開始したのが70年前なので、70年後はどうなるかを予測して欲しいということである。おそらくアンケート回答者の過半は「70年後にテレビは存在しない」と予測するだろうと思う。問題はいつごろテレビは消えるかということである。5年後なのか、10年後なのか、それとももう少し生き延びるのか。どちらにしても「程度の差」である。もちろん、業界内部にいる人たちにとっては死活的に重要な「程度の差」だが、遠からずテレビが主要メディアの一角から脱落することは間違いない。

 私自身はテレビを見るという習慣を失って久しい。過去数年を振り返っても、目当ての番組を見るためにテレビをつけるという動作をしたのは国政選挙の開票速報の時だけである。今はそれも放送開始と同時に「当確」が打たれて、大勢が決してしまうので、そこで見るのを止めてしまう。

 今もリビングにいるときは50インチの受像機の前が私の指定席だけれど、それはNetflixPrime Videoやケーブルテレビで配信されるドラマや映画やスポーツ中継を見るためであって、テレビを見るためではない。たまに間違ってテレビをつけてしまうことがあるが、見たことのない人が大声を出しているか、知らない商品のCMかどちらかなので、すぐに切ってしまう。私にとってテレビは情報を得るためであれ、娯楽番組を見るためであれ、もう日常的に利用するメディアではなくなった。私の周りでもテレビ番組のことが話頭に上ることはもう絶えてない。韓流ドラマの話はよく話題にのぼるが、どれも有料配信のものについてである。この趨勢はもう止まらないだろう。

 NHKはもうしばらくは「国営放送」(政権の広報媒体)として延命できるかも知れないが、民放はある時点でビジネスモデルとしては成立しなくなると思う。民放というビジネスモデルは、スポンサーがテレビCMに投じる出稿料(その相当部分を代理店が抜く)が、CMの効果による収益増を上回ったと判定された時点で終わる。その計算はそれほど難しいものではない。

 このあと日本では急激な人口減が始まり、経済活動の低迷が続く。庶民の消費活動が鈍化し、湯水のようにお金を使えるのは一握りの富裕層だけということになると、テレビCMによって商品売り上げが激増するというような事態はもう起きない。タワーマンションのペントハウスに暮らす富裕層たちの欲望はそもそもテレビCMによって喚起されるようなレベルにはないからだ。

 この逆風に抗って民放モデルを維持しようとしても、テレビ制作側にできることはもうあまりない。できるのは、コンテンツの制作コストを削ることと、CM出稿料を切り下げて「どんな企業でもテレビCMが打てます」という状態にすることくらいしかない。でも、そんなことを続ければいずれテレビは見るに堪えないものになるだろう。

 

 コマーシャルを流す代わりにコンテンツを無償で配信するという「民放というビジネスモデル」そのものは非常によくできたものだったと思う。これを思いついた人は天才である。でも、それは右肩上がりの経済成長が続き、消費者が新奇な商品に対する情報に「飢えている」世界を前提にしたビジネスモデルである。

 若い人には信じられないだろうけれど、テレビの全盛期に私たちはCMに対して番組そのものと同じくらいの集中力を向けていた。1950~60年代に「テレビっ子」だっ頃、CMの時間を我慢してやり過ごしたという記憶が私にはない。

 子どもたちはCMソングをテレビに合わせて唱和した。『月光仮面』は「タケダタケダタケダ~」という武田薬品のCMと「込み」の番組であったし、「わ、わ、わ~、輪が三つ」というミツワ石鹸のCMは『名犬ラッシー』の「序曲」であった。

 CMはコンテンツの重要な構成要素であり、番組の魅力とCMの訴求力は混然一体となっていた。提供される番組を私たちは「太っ腹なスポンサーからの贈り物」として受け取っていた。だから、その感謝の気持ちを(自腹で商品を買うだけの財力はなかったので)、学校の行き帰りにCMソングを高唱したり、母親が買い物をする時にいくつかの選択肢があれば「私の好きな番組のスポンサーの商品」を買うように懇請することで表現したのである。

 フレドリック・ブラウンのSF短編に『スポンサーから一言』という作品がある。番組放送に際して、もし「スポンサーから一言」という要請があれば、テレビ局も視聴者も黙ってそれを拝聴しなければならないという黙契が1950年代のアメリカには存在した。ブラウンの短編では、全視聴者はこのスポンサーからの謎めいた一言をどう解釈するか知恵を絞る(おかげで人類は破局から救われる)。

 

 スポンサーが享受していたこの例外的な威信は今のテレビにはもう望むべくもない。コンテンツはコンテンツ、広告は広告、その間にはもう特段の情緒的なつながりは存在しない。だから、自分が定期的に視聴している番組についてさえ、そのスポンサーに「こんなすばらしい番組を提供してくれてありがとう」という感謝の気持ちを抱く視聴者はほとんどいないと思う。番組への愛着がスポンサーが販売する商品にある種の「オーラ」を与えていたという牧歌的な時代はもうだいぶ前に終わった。「テレビの魔術」はその時に消えたのだと思う。