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内田樹さんの「韓国の地方移住者たちに話したこと」 ☆ あさもりのりひこ No.1348

人口減はもうこれからも止まらない。

地球環境がこれ以上の人口増負荷に耐えられない以上、これは文明史的必然である。

 

2023年3月3日の内田樹さんの論考「韓国の地方移住者たちに話したこと」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

韓国から地方移住者たちの団体が凱風館を訪れた。人口減社会における地方の生き残りについて話を聞きたいという。韓国は合計特殊出生率0.78という超少子化に加えて、全人口の半分近くがソウル近郊に住むという人口一極集中が進行している。地方では人口減のせいで経済活動が低迷し、学校や病院の統廃合が始まっている。韓国政府は効果的な対策を講じていない。

 その逆風の中で地方の再生をめざす活動家たちは、直感に導かれて選択した地方移住という生き方にどのような歴史的必然性や道理があるのか、その根拠を求めて、遠く日本までやってきたのである。

 彼らをお迎えして、奈良県東吉野村に移住して、そこに私設図書館を開いて、地方からの文化発信の拠点作りをめざしている青木真兵君と、兵庫県神河町に移住して、江戸時代から続く茶園を継承した野村俊介君が自分たちの実践について報告し、私が「地方移住の歴史的意義」いついて話をした。

 人口減はもうこれからも止まらない。

 地球環境がこれ以上の人口増負荷に耐えられない以上、これは文明史的必然である。でも、選択肢は二つある。資源の地方分散か都市への一極集中か、いずれかである。

 だが、資本主義の延命のためには後者しかない。地方を過疎化し、都市を過密化すればしばらくの間資本主義は生き残ることができる。19世紀英国で行われた「囲い込み」を人口減局面で行うという離れ業である。成功するかどうか誰も知らない。でも、資本主義はそれを要請し、現代の経済システムで受益している人たちはそれに従うだろう。

 あなたたちはそれを非とする人たちである。だから、政官財もメディアも誰もその活動を本気で支援してはくれないだろう。でも、あなたたちは戦うべきだという話をした。

 

 韓国の地方では、行政、医療、教育の統廃合が進み、それが過疎化を加速させている。病院がなくなれば、基礎疾患のある人や高齢者を抱える家族は暮らせない。学校がなくなれば、学齢期の子どもを抱える家族は暮らせない。「過疎地の住民には行政コストはかけられない。まともな市民生活が送りたければ都市部に引っ越せばいい」というロジックを行政側が操り、メディアがそれに唱和する。そして、しばしば都市の市民たちも「地方に住むのは費用対効果の悪い生き方だから」という理由で、そのような生き方を非とする。事情は日韓同じである。

 けれども、医療や教育は本来弱者のための制度ではないのか。疾病や障害のある人のために医療はあり、生活できるだけの知識や技術をまだ会得していない人のために教育はある。そして行政も弱者のための制度である。

 権力者や富裕者は行政サービスを別に求めてはいない。彼らはむしろ彼らの旺盛な活動に干渉しない「夜警国家」を望ましいものだと思っている。彼らの自由な活動を妨害するものから彼らの権利と富を守る以上の業務を彼らは行政に期待しない。

 米国のリバタリアンたち、そのさらに過激化した「新反動主義者たち」は現に堂々とそう主張している。彼らに言わせると、福祉制度は富を富者から貧者に移転させることであり、財産権の侵害であるからただちに廃止されなければならない。極論だが、「強者はきめこまかい行政サービスなど必要としない」ということは彼らの言う通りである。

 行政は本来弱者のためのものであると言うと目を剥く人がいるかも知れない。けれども、防災も防犯も公衆衛生も社会福祉もどれも発生的には自分ひとりでは身の安全を保てない人たちのものである。私が子ども頃、防災や防犯は町内の仕事だった。冬の夜に父親たちは「火の用心」と拍子木を打ちながら町内を回った。日曜は町内総出で「どぶさらい」をして感染症を予防した。市町村の行政が整備されていない時期は「共同」で弱者たちは身を護ったのである。その「共同で身を護る」仕事を制度化したものが行政である。

 だから、その根本の趣旨から言えば、共同で身を護るための相互扶助ネットワークに帰属していない人こそがまず行政による支援の対象でなければならないはずである。医療が癒しを求めている人の救難信号を聴き取るところから始まるように、教育が学びの機会を求めている人の救難信号を聴き取るところから始まるように、行政は共同体からの支援を求めている人の救難信号を聴き取るところから始まるはずである。

 そうであるならば、共同体の相互支援を十分には期待できずに、取り残された人たちの「小さな声」を汲み上げることこそ他のいかなる公的機関も代替することのできぬ行政の仕事ではないのか。過疎地に居住している人々は、少数者であるがゆえに行政サービスを諦めねばならないというのは行政の趣旨として間違ってはいないか。

 もちろん、世の中そうそう道理が通らないことは私も承知している。行政のリソースが有限である以上、費用対効果ということも当然配慮しなければならないことはよくわかる。それでも、過疎地の行政機関を統廃合するときには「小さな声」を聴き取る機会を逸することへの「疚しさ」が行政側にあって然るべきだろうと私は思う。しかし、現実に行政の側にも、メディアの論調にも、そのような「疚しさ」を感じることはほとんどない。

 たしかに「住民が少ないので、行政・医療・教育機関を置くだけの余裕がない」ということは十分な理がある。だが、実際には行政・医療・教育機関がなくなると、人はそこに暮らせなくなるのである。だから、これは暗黙のうちに「地方にはもう人は住むべきではない」という遂行的なメッセージを発信しているのである。そして、それはコロラリーとして「社会的弱者は公的支援を期待すべきではない」という「強者のイデオロギー」に帰着することになる。

 

 みなさんのような地方移住者はその圧倒的趨勢に抗って「人間性を守るための戦い」を戦っているのである。屈せずに戦い続けてください。韓国からの来訪者たちをそう言って励ました。