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内田樹さんの「『万引き家族』公式パンフレット解説」 ☆ あさもりのりひこ No.1374

それは「狭さ」である。映画の最初から最後まで、画面から観客が受け取るのは、空間に対してものが過剰にあることのもたらす圧迫感である。

 

 

2023年5月5日の内田樹さんの論考「『万引き家族』公式パンフレット解説」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

「この映画の主題は何か?」という問いを作り手に向けることにはあまり意味がない(私が言い出したわけではない、ロラン・バルトという人が60年ほど前にそう宣告したのである)。というのは、作り手は映画を完全に統御しているわけではないからだ。映画の中には監督や脚本家が「この映画の主題は何か?」という問いかけに答えて語ったものとはあまり関係のないものが必ず写り込んでいる。それは小道具や装飾であったり、俳優のメイクや衣装であったり、通りすがりの車の車種であったり、生活騒音であったり、登場人物の役名であったりする。それらは映画の表層にあからさまに露出している。にもかかわらず、なぜそれがそこにあるのか、それでなければならないのかと改めて問われると、撮影にかかわった誰も説得力のある答えを語ることができない。

 例えば、小津安二郎は画面の中にしばしば赤い薬缶を置いた。物語とは何の関係もないただの小道具である。赤い薬缶はカットが切り替わるごとに置き場所が移動して、つねに画面の中のある位置を占め続けた。なぜ赤い薬缶がその時そこになければならないのか、観客にはついにわからない。小津も説明してくれなかった。しかし、長い時間が経ってみると、それらのシーンについては、誰がそこにいて、何をしていたのかは忘れても、赤い薬缶だけは鮮烈に記憶に残っている。

 一体これはなんなのだろう。映画の表層に露出しているにもかかわらずストーリーには一意的な関わりを持たないもの。それは何かの象徴や隠喩ではない。そこに作者から観客に宛てられた明示的なメッセージは含まれていない。にもかかわらず、それは私たちの意識にガラス片のように突き刺さったまま長く残る。それらの映像記号はいかにも場違いに、いかにもわざとらしく、ただそこにある。そして、映像内に散乱するすべての記号を主題や意図へ還元し、一意的な物語として整序しようとする力に執拗に抵抗する。バルトの比喩を借りれば「呼ばれてもいないのに、そこに無言で居残っている客のように」。

 でも、そういう「うまく呑み込めない映像記号」は映画に不思議なリアリティーを与える。それは人間の本性が本人には意識的に統御できない体癖や発声や表情に現れるのとよく似ている。

 

 本作にもそのような映像記号が溢れ返っている。ほとんどすべての画面に「呼ばれてもいないのに、そこに無言で居残っている客」のように、妙に過剰なもの、気になるものがある。それがこの映画に「そうそう簡単に解釈をされてたまるか」という不気味な抵抗感を与えている。

 この映画について語る時に、多くの評者は貧困、不登校、DV、生活保護、非家族的な絆・・・といったような明示された主題を避けることができない。けれども、そういう顕在的な映画的要素のまわりには、漁網に絡みついた海草や小魚や貝殻のように、無数の「なんだかよくわからないもの」がまとわりついている。

 それは「狭さ」である。映画の最初から最後まで、画面から観客が受け取るのは、空間に対してものが過剰にあることのもたらす圧迫感である。彼らの住む家がそうだ。一軒の家に住むには住人の数が多すぎる。家具什器が多すぎる。足の踏み場もない。おばあちゃんと亜紀は一つ布団に寝ているし、祥太は押入れで寝ている。台所は信代ひとり座るともう余人を容れる余地さえない。風呂場も大人ひとりをかろうじて収容できるほどの広さしかない。玄関も所狭しと段ボールが重なり合っていて、出入り口の用をなさない。かつ、これらの住空間はあきらかに久しく掃除がなされていないせいで、きわめて不潔なもののように見える。だから、ふつうの感覚の人なら(観客たちはそうだ)この家の床を素足で踏むとか、壁に肌が触れるということを想像しただけで生理的嫌悪感を覚える。それゆえ、観客視線からはこの家の「人間が住める空間」はさらに狭いものとして感知される。

「貧しさ」を記号的に表象するためだとしたら「ものがない」という映像も選択肢としてありえたはずである(例えば上海で働く最下層の農民工の家の写真を見ると「よくこれだけで暮らせる・・・」と驚嘆するほどにものがない)。でも、この映画では違う。貧しさはここではその反対に「ものの過剰によって可動域が異常に狭く、動線が制約された状態」として提示される。祥太が閉じこもる廃棄された自動車のシートも、亜紀が働く風俗店の個室もそうだ。彼らの「貧しさ」はものを詰め込み過ぎたせいで、生活空間がいっそう狭隘化し、自由度が逓減してゆくというかたちを取る。

 おそらく、それは万引きという生業の論理的帰結なのだ。万引きは人の眼が届かぬ時に、目の前にある商品を取るという行為である。だから、いつ、何を盗むのかを事前に完全には計画することができない。それが商品購入との違いである。万引きによって、たしかにそれなりの価値のある商品は無償で手に入るのだが、それは(祥太が万引きしてきて家財に加わった釣り竿やシャンプーのように)当面は彼らの住空間をひたすら狭くすることにしか役立たない。

そもそも彼らがこのような大家族を形成するに至ったのは、治と信代が子どもたちをよその家から「万引き」してきて、家族に加えてしまったせいである。その行為によって彼らは特に使用価値のあるものを手に入れたわけではない。ただ司直の追求を恐れなければならなくなっただけである。

 所有し過ぎることによる空間の狭隘化と自由の喪失、それが彼らの「貧しさ」の本質なのである。だが、それは彼らの逆説的な「豊かさ」の源泉としても描かれている。

 あまりに狭いところに押し込められたせいで、この家族には「パーソナルスペース」というものが存在しない。そういう概念さえ存在しない。個人のテリトリーは(祥太の押し入れや亜紀の寝床)のように公共的なスペースを侵さないという条件下にかろうじて許されているだけである。万引き行為の主犯である夫婦は、その行為の罰として、パーソナルスペースを持つことが許されない。不要不急のものを次々と万引きし続けているうちに、彼らは「無私」の人となる以外に新たな財を受け容れることができなくなった。人間であれ商品であれ、新たな財を受け容れるごとに、一家の可動域は狭まり、プライヴァシーは制限され、市民的立場はますます危機的なものとなってゆく。そして、人々は「無私」化する。それにつれて彼らを隔てる距離は縮まり、接触はより濃密になり、ついにはモルファスなねばねばした「かたまり」のようなものに化してゆく。

 

 家族の解体はその逆のプロセスをたどる。ひとりひとりの「私は実のところ何ものなのだ?」というアイデンティティーにかかわる問いが前景化した時に、つまり「パーソナルなもの」が出現した時に、「万引き家族」は崩壊する。その時にあきらかにされたのは、この家族が「私は自分が何ものであるのかを決して問わない」という黙契で結びつけられていたということである。

 この映画では場面ごとに家族の座る位置が変わる。考えればわかるけれど、「ちゃぶ台を囲んだ家族の座る位置が毎回変わるホームドラマ」というものは存在しない。樹木希林はかつて『寺内貫太郎一家』というホームドラマでも祖母の役を演じていたが、そこでは画面内での家族全員の定位置はきびしく定められていた。座る場所がその人が何ものであるか、どうふるまうべきかを明確に指示していたのである。

 

 だが、「万引き家族」の人々にはその取り決めがない。彼らには家庭内での「立場」がない。それを果たさなければ家族の一員として認められないという義務がない。いるだけでよいのだ。彼らは個人としてのアイデンティティーを差し出した代償に、家族であるために果たすべき義務からの解放を手に入れた。それはたしかに現代社会において最も手に入れにくい「財」の一つである。