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内田樹さんの「『若者よマルクスを読もう 資本論編』まえがき」 ☆ あさもりのりひこ No.1379

あなたがたの哲学的未来が豊かなものでありますように。

 

 

2023年5月10日の内田樹さんの論考「『若者よマルクスを読もう 資本論編』まえがき」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

まえがき

 

 みなさん、こんにちは。内田樹です。

 本書は石川康宏先生との共著『若者よマルクスを読もう』のシリーズ最終巻です。マルクスの『資本論』をめぐって二通ずつ計四通の往復書簡を収録しました。それと、巻末に「関連文献」として石川先生の『イギリスにおける労働者階級の状態』についての書簡と中国語版に寄せた二人からの言葉を収録しています。

『若者よマルクスを読もう』は本書を入れてシリーズ全四巻、番外編として池田香代子さんをまじえた『マルクスの心を聴く旅』を含めると全五巻というものになりました。石川先生と二人でマルクスの主著を順番に全部読んでゆくという無謀な企画が始まって15年。ついに本書で終わったわけです。よく続いたものだと感慨無量です。

 マルクス読解の「先導役」の石川先生と、この気長な企画に忍耐づよく付き合って下さったかもがわ出版の松竹伸幸さんに、心からお礼を申し上げます。このあとの往復書簡の中でも二人への謝辞が繰り返されますけれど、それだけ感謝しているということで、おめこぼしください。

 

 この本はタイトルから分かる通り「若者」に向けて書かれたものです。最初に石川先生と話し合って、想定読者は「まだマルクスを読んだことがない(けれども、そのうち読むことになるのかなと何となく思っている)高校生」に設定しました。この「そのうち読もうかな」と思っている高校生が意を決して「じゃあ、マルクス読むか」と実際に一冊目を手に取るところまで持ってゆくのが僕たちの仕事です。そうやって書くとわずかな距離のようですけれども、「いつか読もう」から「さあ読もう」までの隔たりを乗り越えるためには(マルクスの好む言葉を借りれば)「命がけの跳躍」が必要です。

 僕たちの本は高校生たちにこの「命がけの跳躍」をしてもらうために書かれています。それだけが目的で書かれています。そういう意味では実にすっきりとした執筆方針の本です。

 想定読者と執筆の目的をはっきり決めておくのは本を書く上ではとてもたいせつなことです。「誰にでも気軽に手に取ってもらえる本」というのが初心者のための入門書の要件だとふつうは思われていますけれど、「誰にでも」というふうにあまり想定読者の層を拡げてしまうと、想定読者の像がぼやけてしまいます。できれば、想定読者の解像度は高い方がいい。

 

 もう一つたいせつなことは「読者を案内すること」です。

 マルクスのような巨大な哲学者・思想家の書いたものを、初心者が独力で読解し、解釈することはとても困難な仕事です。高校生の手持ちの知識や、手持ちの価値判断の枠組みではマルクスには容易には立ち向かうことができません。マルクスのようなスケールの思想家と向き合うためには、どこかで高校生が抱きしめている自分の「世界の見方」を手放さなければいけません。いったん自分のものの考え方を「かっこに入れて」、自分の価値観を「棚上げ」して、自分が見える世界とはまったく違う世界の光景をこの人は見ているのかも知れないということを仮説的にではあれ受け入れないと、話は始まらない。

 そう書くとなんだか難しそうですけれども、実際には高校生だってそれに類することはしてきたはずなんです。例えば、小説を読むというのはそれに似た経験です。

 自分の知らない時代の、はるか遠くの国の、年齢も、性別も、職業も、ものの考え方も、感情も、まったく違う人の中に想像的に入り込んで、その世界を生きる...ということは小説を読むときに誰もがしていることです。

 僕は10歳くらいのときにルイザ・メイ・オルコットの『若草物語』という四人姉妹が主人公の小説を読んで、生まれて初めて「少女」の中に想像的に入り込んで、「少女から見える世界」を経験しました。そのときに味わった解放感と浮遊感をいまでもよく覚えています。19世紀終わりのニューイングランドの女の子の気持ちと「同調」したときに、10歳の僕は揺り動かされて、「日本の10歳の小学生らしさ」が僕に強制していたものの考え方や感じ方から解き放たれて、なんだかずいぶん自由になった思いがしました。

 そして、それからは、できるだけ遠くの時代の、遠くの国の、自分とぜんぜん似てない人たちの「中に入り込む」ことから読書の愉悦を引き出すようになりました。

 哲学書や思想書の場合も、そこで得られるのは、小説を読む愉悦や解放感と本質的には変わらないと思います。哲学者たちの言葉づかいは小説家のそれに比べるとずっとごつごつしていますし、難解ですけれども、その哲学者や思想家が生きている時代の「生々しい現実」が彼らを駆動して、それを書かせているという点では小説家と変わりません。「どうしてもこれだけは言っておかなければ、死んでも死にきれない」というくらいの切迫を以て書かれたものだけが何世紀もの風雪に耐えて、古典として生き残っているのです。

 だから、哲学書や思想書というと、ずいぶん抽象的なことを論じているように思えるかも知れませんけれど、実際はすごく「リアル」なんです。よく読めばわかります。書き手の激しい息遣いや鼓動が微かにではあれ行間から読み取れるはずなんです。

 でも、この「行間を読む」という仕事が難しい。

 小説やマンガや映画の場合、作品世界の中に深く入り込むためには、別に専門的な読み方の「先導者」や「先達」は不要です。もちろん、そういう先達がいて、手を引いてもらった方がはるかに深く作品世界を経験できるのですけれども、誰にも教えてもらわずとも、僕たちは作品を自分なりの仕方で享受し、愉悦することはできます。

 けれども、マルクスのようなごりごりした本の場合は、どうしても「行間を読む」ためには「先達」や「先導者」が要ります。

 道を先に進んで、ときどき振り返って「ちゃんとついてきてるかい?」と声をかけてくれて、足場の悪いところでは手を差し伸べて引き上げてくれて、「ここがかんどころ」というところにたどりついたら、つるはしで硬い岩盤を叩き割って、「ほら、ここに耳を当ててごらん」と教えてくれる。そういう「先達」が必要です。その時に「先達」に言われるままに地面に耳を当てみると、たしかに書き手の激しい息遣いや鼓動が聴こえる。そういう「ポイント」がところどころにあるんです。それを教えるのが「先達」の仕事です。僕はそんなふうに考えています。

「この本にはこんなことが書いてありますよ」と分かりやすく教えるのは「先達」の仕事ではありません。そこまで踏み込んではいけない。何が書いてあるのか、それを見つけ出して、それを聴き取って、自分の中に収めてゆくのは読者自身のすべき仕事です。それは他の誰にも代行できませんし、代行させてはいけません。

 ですから、僕たちのような「先達」にできるのは、「ほら、ここに耳を当ててごらん」と言って、書き手の「生の声」が聴き取りやすいポイントを教えてあげることまでです。それ以上読者に影響を及ぼすことは自制すべきだろうと僕は思います。

 果たして、そういう抑制の効いた本を書き上げることができたかどうか、それはみなさんにご判断頂きたいと思います。

 僕がマルクスについて書くのはもうこれが最後になるかも知れません。ですから、最後にこれからマルクスを読もうとする勇敢な若い人たちに対して、祝福の言葉を贈って終わりにしたいと思います。

 

 あなたがたの哲学的未来が豊かなものでありますように。

 

 これは僕がずいぶん若い頃に哲学上の師であるエマニュエル・レヴィナス先生から贈ってもらった言葉です。それをみなさんにもお贈りしたいと思います。

 

 

2023年5月