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内田樹さんの「テロリズムについて」(前編) ☆ あさもりのりひこ No.1384

テロが起きると民主主義が壊れるのではなく、民主主義が壊れるとテロが起きるのです。

 

 

2023年6月23日の内田樹さんの論考「テロリズムについて」(前編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

『月刊日本』6月号で岸田首相襲撃事件について「政治的テロリズム」をめぐるインタビューを受けた。それを採録しておく。

 

― 安倍元首相の銃撃事件に続き、岸田首相襲撃事件が起きました。内田さんは今回の事件をどう受け止めていますか。

 

内田 今回の事件には安倍元首相の銃撃事件ほど驚きは感じませんでした。さいわい死人や負傷者が出なかったこともありますが、何より襲撃犯の動機や行動の意味が分からなかったからです。岸田首相を狙うことで何をしたかったのか、それが分からない。

 それに、私はこの二つの事件の襲撃犯を「テロリスト」と呼ぶことは適切ではないと思います。いずれも政治的テロリズムの条件を満たしていないように思うからです。

 テロリストにとって何より重要なのは自分の行動の歴史的意味を明らかにすることです。それ以外の手段では実現困難な政治的主張のために命がけの行動をするのがテロです。第三者が出てきて、「彼はどうしてこんな行為に向かったのか」についてあれこれ解釈する可能性を残すようなことをテロリストはしません。

 大久保利通を暗殺した石川県士族の島田一郎はその斬奸状に「有司専制の弊害を改め、速かに民会を興し」とテロの目的を明らかにし、斬るべき「姦魁」として大久保の他に木戸孝允、岩倉具視の名前を挙げていました。大隈重信に爆弾を投じた玄洋社の来島恒喜は大隈重信外相の進める「屈辱条約」締結反対運動の先鋒であり、玄洋社の看板を背負ってテロ行為を行いました。彼らの行動の意味については余人の解釈の入る余地はありません。

 それにテロリストは本来生き延びることを考えていない。島田は自首して斬首され、来島はその場で自刎しました。「一人一殺」を掲げた血盟団のテロリストたちも、テロの後その場で自裁するつもりでいた。人を殺す以上は、自分の命も差し出す。フランスの作家アルベール・カミュはナチスドイツ占領下の抵抗運動の中で書かれた『ドイツ人の友への手紙』で、レジスタンスのテロを倫理的に肯定するためには、自分の命を差し出すことを誓言しなければならないと書いていました。

 来島のテロで大隈重信は片足を失う重傷を負いましたが、来島がおのれの政治的信条に殉じたことを高く評価し、「いやしくも外務大臣である我が輩に爆裂弾を食わせて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であろうと感心する」と賞賛し、来島の法要に毎年代理人を送ったそうです。

 自分の行為の政治的意味を誤解の余地なく明らかにして行為に臨むという政治的な誠実さ、相手の命を奪う代わりに自分の命を差し出すという倫理的な緊張、この二つが「政治的テロリズム」成立の条件だと私は思います。いずれかを欠いている場合、それが政治家を標的にしたものであっても、犯人を「テロリスト」と呼ぶべきではない。ただの「暴漢」です。「テロリスト」という言葉を軽々しく用いるべきではありません。

 襲撃犯たちは、いずれもすぐに取り押さえられたので、その場で自決することができなかったわけですが、「斬奸状」を書く時間的余裕はあったはずです。なぜこの行為が必要だったのかを世に訴える手立てはあったはずです。それを怠ったので、生い立ちや家族関係、本人のものとされる匿名のツイートなどの状況証拠を積み重ねて、第三者に動機を推測させるということになってしまった。

 他人に自分の行動の動機の解釈を委ねられるということが私には理解できません。自分の行為を自分の言葉で説明できなかったのは、襲撃犯たち自身自分がなぜこんな行動を取るに至ったのか、その理路が実は分かっていなかったからだと思います。暴力をふるおうと思ったが、その意味を自分では言語化できない。だから、まず行動をしておいて、第三者に自分に代わって説明してもらう。これはあまりに幼く、無責任な態度だと思います。ただ暴力衝動に身を委ねたに過ぎない。

 

― 一連の襲撃事件は「民主主義の破壊行為」「民主主義を揺るがす暴挙」などと批判されています。しかし、これらは自民党政権を批判する際に使われる言葉でもあります。

 

内田 その批判は原因と結果を取り違えていると思います。テロが起きると民主主義が壊れるのではなく、民主主義が壊れるとテロが起きるのです。

 民主主義は国民のさまざまな政治的意見の代表者が議会で議論を行い、合意を通じて国民の意思が物質化される...という政治システムです。たとえ少数派であっても、国民の意見である限り、政府はそれを部分的にでも汲み上げて、実現しなければならない。というのは、政府は政権与党に投票した有権者の利益代表ではなく、反対派に投票した有権者をも含めた「国民全体の代表者」でなければならないからです。

 少数派の意見が、民主的手続きを経て、部分的にではあれ実現するプロセスがきちんと機能していれば、政府に対する暴力行動が頻発するというようなことは起きません。少数派の意見であっても、採り上げられ、吟味され、実現されるプロセスが整備されている限り、反対派の人々も民主主義の統治機構を壊そうとはしません。あくまで投票行動や合法的な市民活動や労働運動や学生運動を通じて政治に関与するにとどまる。

 しかし、このプロセスが機能不全になれば、少数派の国民は「自分たちの政治的意見が現実に影響を与えることはない」という無力感と疎外感に囚われることになる。それが今の日本で起きていることです。

 日本では投票率が低下の一途を辿っています。棄権する有権者は「選挙に行っても何も変わらない」と思っている。過半数の国民が自分の一票には現実変成力がないという無力感に囚われている。これは民主主義にとって危機的な徴候です。

 この10年間、自公連立政権が自分たちの支持層の利害だけを代表し、それ以外の国民の要望についてはほとんど「ゼロ回答」で臨むようになった。ふつうは政府が強権的・圧政的になると、民心は離反するものですが、日本ではそうならなかった。政府が独裁的になるほど、国民は萎縮し、少数派は腰砕けになった。この「成功体験」が政府を増長させたのだと思います。

 

―なぜ日本では民主主義が機能しなくなったのですか。

 

内田 日本の為政者たちがこの「成功体験」に居着いて民主主義の基本原則を忘れたからです。民主主義の原則とは、オルテガが道破した通り、「敵と共に生き、反対者と共に統治する」ことです。為政者はおのれの反対者や政敵を含めた全国民の代表として、「公人」としてふるまうように要請される。

 もちろん、「敵と共に生き、反対者と共に統治する」のはものすごく手間がかかりますし、気分もよくない。「公人」であるためには、さまざまな場面で「痩せ我慢」を強いられるし、反対派たちと膝突き合わせてどれほど熟議しても、得られるのはせいぜい「全員が同じ程度に不満足」な政策だけです。

 それよりはトップに全権を委ね、そのアジェンダに賛成する者だけで政府を形成して、反対者は全部排除する。そうやってトップの決定が遅滞なく末端まで示達される仕組みの方が「効率がいい」ということを言い出す人が出てきた。「民間ではそうだ」と言うのです。

 たしかに、株式会社の仕組みはそうです。株式会社ならトップの意見に反対する社員は左遷され解雇される。トップに賛同する社員が重用される。政策の適否については社会では議論しない。トップが決定して、その成否は「マーケットが判断する」。政策判断が正しければ株価が上がる。間違っていたら下がる。

 ビジネスの話としては「それらしく」聞こえますけれども、今の日本で行われている政治は彼らが言うような「株式会社」のようなものではありません。そもそも「マーケット」の定義が違う。

 株式会社なら株価はマーケットが決定します。そして「マーケットは間違えない」ということを疑うビジネスマンはいない。では、政治における「マーケット」とは何でしょう。本来なら「日本の国力評価」がそれに当たるはずです。国際社会におけるプレゼンス、外交力、経済力、文化的発信力などなど。でも、ご存じの通り、日本の国力はこの10年ひたすら下がり続けています。経済でも、人権でも、報道でも、教育でも...さまざまな指標で日本は先進国最下位が定位置です。これは本来なら「経営の失敗」を意味するはずですが、日本ではそうは解釈されない。というのは今の政府は「マーケット」を「選挙」に、「株価」を「議席獲得数」に読み替えているからです。「選挙で多数派を制した。民意を得た。ということは、これまでの政策はすべて正しかったということだ」というまったく没論理的な理屈が日本ではまかり通っている。

 株式会社では独裁が許される。トップの経営方針が気に入らないなら会社を辞めろということが言える。でも、国家の場合は政府が気に入らないから日本人を辞めるというわけにはゆかない。日本で生業を営み、ここで集団を形成し、ここでしか生きられないという人たちが圧倒的多数だからです。

 日本の政治が耐えられないので、海外に逃げることができる人もいるでしょう。でも、それができるのは一握りです。1億人以上の人は日本列島から出て暮らせるほどの「機動力」を持っていません。この状況は企業とはまったく違います。でも、今の政権与党は「トップの経営判断に反対する人間は解雇」されて当然だと思っている。だから、国政でも、少数派国民の意見は汲み上げる必要はないということになる。

 しかし、少数派を無視する政治を続け、少数派の国民たちが「自分たちの政治的意見が実現する回路がどこにもない」という無力感に取り憑かれると、民主政はもう持ちません。

 

「少数派の意見に耳を傾けなければならない」というのはきれいごとではなく、民主主義国家を維持するための政治的リアリズムです。J・S・ミルは民主主義のもとでも多数派が少数派の意見を無視する「多数派の専制」に警鐘を鳴らしましたが、それは「少数派の意見も聞いてあげようよ」という親切心からの話ではなく、「少数派の意見を採り上げる回路を確保しておかないと、いずれ少数派はテロやクーデタによって暴力的な仕方で政策決定に関与しようとする」という危機感があったからです。政府と国民の間には一定の緊張関係が必要です。