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内田樹さんの「テロリズムについて」(後篇) ☆ あさもりのりひこ No.1385

強者への対抗手段は暴力ではありません。「倫理的優位性」です。政府が倫理に反する行為をしても、市民は同じことをしてはならない。どれほど暴力をふるわれ、侮辱を受けても、倫理的な優位は捨てない。それだけが市民の武器だからです。

 

 

2023年6月23日の内田樹さんの論考「テロリズムについて」(後篇)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

― しかし、今の日本ではそういう恐怖心や緊張関係が失われています。

 

内田 政府と国民の間の対立関係は深まっていますが、政府の側には国民を恐れる気持ちがない。それより政権を支持する人たちの主張をどんどん汲み取ることで、コアな支持層を固めている。政治的リソースは有限ですから、コアな支持層にリソースを気前よくばらまけば、それ以外の反対派の国民、「無党派」の国民には何も行き渡らないようになる。ここでも二極化が起きている。政権のコアな支持層に国富が偏在し、多数の国民は割を食っている。こうなると国民間の対話と合意形成はしだいに困難なものになってきます。「みんな同じ日本人じゃないか。一蓮托生だ」というかたちで国民的統合を果たすことが困難になる。 

 菅政権の時の日本学術会議の新会員任命拒否が好個の例ですけれど、あれは「政府批判をする学者には公的支援を与えない」という政権の強気をアピールしたものです。政府におもねる「御用学者」しか公的支援を得られないシステムにすればたぶん学者や知識人は政府批判を控えるようになるでしょう。でも、権力に対する忠誠度を以て学術的能力評価に代えるということをしたら、日本の学術に先はありません。

 でも、今の日本ではあらゆる領域で「政権支持者か/反対派か」の踏み絵が用意されていて、「反対派」を選んだ場合には「資源分配には与れない」というルールが徹底されている。

 

― そもそも近代市民社会論には、抵抗権や革命権という考え方があります。悪政や暴政を行う為政者を暴力的に倒すことは許されるのではありませんか。

 

内田 民主主義には、強権的な政府に対する抵抗権・革命権が初期設定されています。もともと民主主義は王政を打倒して、それに取って代わるための政治理論ですから、「人民の生命、自由、幸福追求の権利」を否定する政府を倒す権利は人民の側にあるとされています。実際、フランス革命でもアメリカ独立戦争でも、それまでの支配者を市民が倒して新しい政府を立てた。ですから、アメリカ独立宣言には「人民は政府を改造または廃止し、新たな政府を樹立する」権利を有すると明記されています。

 でも、それから11年後に制定された合衆国憲法にはもう抵抗権・革命権は明記されていません。かろうじて、修正第一条に「人民が平穏に集会し、また苦痛の救済を求めるため政府に請願する権利」という希釈された表現で残されただけです。でも、「平穏に(peaceablly)」という条件が付けられた以上、これを抵抗権・革命権を保証した条文とみなすことはできません。

 

― 一連の襲撃事件後、「暴力は決して許されない」と強調されています。しかし、政府は増税で国民のカネを強奪したり、辺野古移設で反対住民を排除して自然を破壊したりして国民に暴力を振るっています。政府の暴力に対して、国民が暴力で対抗するのは許されるのではありませんか。

 

内田 政治権力は暴力装置を占有しています。それに対して国民が対抗することもありますが、それはあくまで「弾圧に抗う」という意思表示のための象徴的な行動であって、それ自体は政治的暴力の発動ではありません。

 政府は国民に対して暴力をふるうことができます。圧倒的強者ですから、市民が政府に暴力で対抗しても勝ち目はない。むしろ、市民が非合法な暴力に訴えれば、政府の弾圧を正当化する口実を与えてしまう。 

 強者への対抗手段は暴力ではありません。「倫理的優位性」です。政府が倫理に反する行為をしても、市民は同じことをしてはならない。どれほど暴力をふるわれ、侮辱を受けても、倫理的な優位は捨てない。それだけが市民の武器だからです。

 例えば、辺野古移設の反対運動がいまだに強い影響力を持ち続けているのは、「権力の理不尽に対して暴力に訴える」ということをしないで、被害者のポジションに忍耐強くとどまっているからです。もし反対住民が機動隊にダイナマイトを投げつけるようなことをしていたら、土砂搬入事業がしばらく停滞したとしても、反基地運動はその時点で終わっていたでしょう。

 少数派の最大の武器は権力に対する倫理優位性です。一見非力のように思われますが、決して無力ではない。歴史を見れば、多くの勝利の先例があります。ガンジーの非暴力不服従も、キング牧師の非暴力的な公民権運動も、そうやって目的を達した。私たちもそれに倣うべきだろうと思います。「決して暴力には訴えない」という抑制を保ちながら、「権力の理不尽を許さない」という意思を明確に示すことです。

 

― 戦前の日本では経済不況から政治不信が広がり、テロやクーデターが起きて政党政治が崩壊しました。こうした戦前の歴史は現在の状況と似ています。戦前の歴史は繰り返すと思いますか。

 

内田 歴史が繰り返すと私は思いません。戦前のテロやクーデタを主導したのは何人かの思想家であり、実行主体は軍部でした。大川周明、北一輝、権藤成卿らはそれぞれあるべき国家像を示し、それに共鳴した青年将校が軍隊を動かしてクーデタを企てた。

 でも、今の日本には現在の日本に代わるべき国家像のオルタナティブを提示するだけのスケールを持った思想家もいないし、独自の政治判断でクーデタを計画し、実行する「軍人」もいません。

 自衛隊は警察予備隊の創設から数えて70年余の歴史を持ちますが、戦前の反省もあって、政治への関与を避けている。自衛隊の一部が「自衛隊政権」の樹立を求めて、組織的なテロやクーデターを起こすということはまず考えられない。

 現に、自衛隊に思想教育のために招聘されている講師たちの顔ぶれを見ればわかりますが、ほとんどが現政権の支持者たちです。現政権支持のイデオロギーを注入された組織が政権の転覆を企てるということは理論的にあり得ません。

 

― 仮に戦前と同じ条件がそろい、自衛隊がテロやクーデタを試みても、それは必ず失敗すると思います。日本最大の暴力装置は自衛隊ではなく、在日米軍だからです。

 

内田 万が一、自衛隊が日本国内で軍事行動を起こすということになったとしても、在日米軍の許諾を事前に得なければならない。自衛隊機が米軍基地上空を無許可で飛行するというようなことを在日米軍は許すはずがありませんから、自衛隊がクーデタを起こすことがあったとしたら、それは在日米軍との共同行動になるということです。つまり、ホワイトハウスがその時の日本政府を「廃絶しろ」と命令したということです。日本の「属国化」が限界まで進んで、もはや国家の体をなさなくなった時にはそういうこともあるかも知れません。

 

― 戦前の歴史が繰り返されないならば、日本の未来はどうなると思いますか。

 

内田 現在、日本の民主制は崩壊過程にあります。このまま政府とその「取り巻き」たちが公権力を私的目的に用い、公共財を私財化するネポティズム政治が続くうちに、日本は後進国に転落するでしょう。

 

― 今の日本では反体制運動は白眼視され、国民は「抵抗の原理」を失っているように思います。しかし、歴史的には天皇に根拠を置く「抵抗の原理」が機能してきました。

 

内田 日本では、天皇と国民が中間的な権力機関の媒介抜きに直接結びつく政体を理想とする「一君万民」の考え方が深く定着していました。明治維新も、自由民権運動も、昭和維新も、めざした政体は原理的には全部同じです。「一君万民のコミューン」です。日本では「一君万民」以外のイデオロギーが政治革命の起爆剤になったことが過去にはありません。

「一君万民」イデオロギーで政治革命を企てたのは三島由紀夫が最後だったと思います。でも、その時点ですでに「一君万民」のスローガンには政治的喚起力がなくなっていた。三島が言う通り、すでに「断弦の時」が過ぎて、それからあとの日本人は伝統的な「抵抗の原理」「革命の原理」失ってしまったことを三島は個人的なテロを通じて確認したのだと思います。

 しかし、天皇が時の政治権力とは無縁の境位にあって倫理的卓越性を体現している唯一の政治的存在であることに変わりはありません。ここまで国民の間に政治的虚無主義が広がりながら、なお社会が道徳的無秩序状態にまで崩れ落ちずに済んでいるのは天皇制の倫理的な支えがあるからでしょう。日本の民主主義の復活のためには、立憲デモクラシーと天皇制を共存させた、日本独自の政体を日本人自身が構想し、創造してゆかなければなりません。

 

(4月23日 聞き手・構成 杉原悠人)