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内田樹さんの「いま私たちが学ぶべきこと」(後篇) ☆ あさもりのりひこ No.1394

学びというのは、学んだ後に学ぶ前とは別人になっていることである。学び始める前には自分が何を学ぶことになるのか分かっていなかったことが、学び終えたあとに回顧的に「わかるようになる」というのが学びの力動性、開放性、豊饒性なのである。

 

 

2023年7月7日の内田樹さんの論考「いま私たちが学ぶべきこと」(後篇)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 考えてみればわかる。商取引においては、消費者は自分の前に置かれた商品については、その価値や有用性や費用対効果を熟知しているということになっている。たとえ知らなくても、「知ったような顔」をすることになっている。店員の袖をとらえて、商品について「何も知らないのです。ぜひ教えてください」と叩頭する消費者はいないし、説明を受けた後に「ありがとうございます」と一揖する消費者もいない。みんな「そんなことはとっくに知っているよ」という顔をする(知らなくても、そういう顔をする)。バザールでの売り買いと同じで、「商品に対して欲望を抱いていない」と思わせることが売り手を譲歩させて、値引きのために有効だと思っているからである。

 教育が商取引なら、商品は「履修単位」、貨幣は「学習努力」に相当する。だとすれば、学生=消費者は「最低の学習努力で単位を履修すること」を義務づけられる。最低の代価で商品を買うことは、消費者の権利というよりはむしろ義務だからだ。そうしないと需給バランスに基づく適正な価格形成は行われず、市場経済は成り立たなくなる。だから、授業に際しても、もし学生たちが賢い消費者としてふるまうなら、これから教えられることに対してできるだけ欲望を抱いていないように見せることを義務づけられるのである。

 こういった舞台装置が「学び」にとって有害無益であることは誰にでもわかるはずである。でも、ある時期から教育を商取引のタームで語ることがふつうになった。保護者や学生は「クライアント」であり、大学は「店舗」であり、「市場のニーズに応えて」、「消費者に選好される教育プログラムを展開すること」が学校の仕事だと真顔で言う人たちが学内外を埋め尽くすようになった。そのようにして日本の学校教育が壊滅的なことになったのはご案内の通りである。

 

 教育を商取引のスキームで語ることの最大の問題は、「消費者は変化しない」ということである。消費者は経済活動を通じて決して別人になることがない。スーパーマーケットに入ってゆく買い物客は入った時と出てゆく時で同一人物である。買い物かごの中の商品は増えているけれども、買い物をした人間は(財布が軽くなった以外)まったく変化していない。変化しないというより、変化することを禁じられているのだ。買い物をする前に感じていた「欠如(want)」が、商品購入によって「補填(supply)」されただけである。スーパーの中で何時間過ごそうと、何日過ごそうと、何年過ごそうと、消費者は決して別人になることはない。なってはならない。入店時点の「欠如」が商品購入によって「補填」されたという以上の変化はあってはならない。買い物かごに商品を一つ放り込むごとに買い物客の表情が変わり、声が変わり、物腰が変わり、語彙が変わり、価値観が変わり、欲望の布置が変わり・・・ということは絶対に起きない。起きてはならない。だから学びを「商取引の比喩」で語ってはならないのである。

 

 私たちはこの世にそのような学的領域が存在するということさえ知らなかった学問を「図らずも」学んでしまうという仕方で学ぶ。少なくとも呂蒙においてはそうだった。主君孫権に「将軍に学問があればなあ」と言われたとき、呂蒙は学問が何であるか、それにいかなる有用性があるのかを知らなかった(知っていれば言われる前に学び始めていただろう)。だが、孫権のその一言を奇貨として、呂蒙は学び始め、別人になった。

 もう一度繰り返すが、学びというのは、学んだ後に学ぶ前とは別人になっていることである。学び始める前には自分が何を学ぶことになるのか分かっていなかったことが、学び終えたあとに回顧的に「わかるようになる」というのが学びの力動性、開放性、豊饒性なのである。

 だから、「いま私たちが学ぶべきこと」があるとしたら、それは世の中には「学びというものがある」という原事実それだけなのである。

 私自身は武道や能楽など、いくつかの芸事を「学んで」きた。学び始めて合気道は半世紀、能楽は四半世紀に及ぶ。学び始めた時点で、私は自分がこれから何を学ぶことになるのかほとんど何もわかっていなかった。自分がそれからあと会得することになる技術を呼ぶ名詞を知らなかったし、その後に操作できるようになる身体部位を感知したことがなかった。「気海丹田に気を集める」ことも「胸を落とす」ことも「手の内を替える」ことも、ある日そういうことができるようになっている自分を発見するのである。「そういうこと」ができるようになりたいという「欠如」が先行して、それを「補填」したのではない。この世にそのような身体部位があることも知らず、それを操作する技術があることも知らないにもかかわらず、稽古を積んでいるうちに、ある日できるようになっているのである。

 もちろん稽古にはきちんとした教育体系がある。それは「先達についてゆく」ということである。ただし、どこに行くのか、どういう経路をたどるのか、いつ何が身につくのか、何も情報が事前には与えられない。ただ「先達」の背中を見ながら歩き続けるだけである。自分が踏破すべき行程のどこにいるのか、目的地に到達するまでにどれだけの歳月を要するのか、何もわからない。自分が修行していることの意味を叙する語彙も、その価値を考量するものさしも自分にはない。そこから「学び」は始まる。でも、それが武道や宗教や芸能における「修行」なのである。

 私が知る限り、西欧の言語には「修行」に類する単語が存在しない。長くアメリカで坐禅の指導をしてきた曹洞宗の禅僧藤田一照師に以前「『修行』に相当する単語が英語にはありますか?」と訊いたことがある。「ない」というのが藤田師のお答えであった。trainingexercisepracticeも違う。どの語も、それを修することで「何を」達成するのか、その目標が事前に開示されているからである。「修行」は違う。踏破すべき全行程を一望俯瞰する「神の視点」に想像的に立って、そこから自分の今・ここを語ることは修行者には決して許されない。

 私は武道と能楽の他にも禊祓や滝行などを「修行」をしてきた。そして、その経験を通じてこれが教育システムとして非常に優れたものであるということを深く確信している。この世にそのような学知や技能が存在することさえ知らなかった学知や技能を習得できるという開放性・豊饒性のうちに「学び」の神髄はあると私は確信している。けれども、日本の教育者で私のこの考えに同意してくれる人は非常に少ないと思う。教育政策を提言する政治家や政策を起案する官僚の中にはたぶん一人もいないだろう。それでも、私はこれからも同じことを言い続ける。

 

(「學鐙」夏号)