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内田樹さんの「宮崎駿『君たちはどう生きるか』を観て(前編)」 ☆ あさもりのりひこ No.1403

一度観ただけでは、何を観たのか、どういう話だったのかがよくわからない。果たしてこの作品はいったい「何が言いたいのか?」ということを観客は自分に問わなくてはならない。

 

 

2023年8月22日の内田樹さんの論考「宮崎駿『君たちはどう生きるか』を観て(前編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

私は宮崎駿の映画のかなり熱烈なファンである。これまでいくつかの宮崎駿作品について映画評を書いてきた。宮崎作品を観た後は、いつでも語りたいことが湧き上がってきて、語らずにはいられないのである。

今回の『君たちはどう生きるか』についても、何かを語らずにはいられないことに変わりはないのだが、それはこれまでのように自分が観た映画について語ることを通じて「さらなる愉悦」を引き出すためではない。「これは一体どういう作品なのか」を何とか言葉にしてみないと、自分が何を観たのかがよくわからないからである。

 これまでの宮崎作品なら、物語は完結し、ラストで伏線は回収され、映画の「メッセージ」も別に解釈の手間をかけずにもすんなりと伝わってきた。映画を楽しむためには、それで十分だった。そして、映画をたっぷり楽しんだ上で、「果たして物語はあれで完結しているのか?」「伏線はほんとうに回収されているのか?」「あんな『わかりやすい』メッセージで納得してよいのか?」という深読みが観客には委ねられた。

 別に深読みなんかしなくてもいいのである。素直に観ていれば、それだけでお腹いっぱいになるほどに楽しいのである。でも、さらなる愉悦を求めて、「もっと何か裏があるんじゃないのか」と厨房をのぞき込みたくなる。そうすれば映画を二度楽しめる。

 しかし、『君たちはどう生きるか』はそうではない。一度観ただけでは、何を観たのか、どういう話だったのかがよくわからない。果たしてこの作品はいったい「何が言いたいのか?」ということを観客は自分に問わなくてはならない。宮崎駿はこれまでそのような「面倒な仕事」を観客に求めたことがない。ややこしい観客が勝手に深読みしたり、裏読みしたりして、わいわい好き勝手をしていただけで、ふつうの素直な観客は「ああ、面白かった」で大満足して終わったのである。でも、今回ばかりはそうもゆかない。

 

 物語のあらすじを大雑把に言うと、「少年が母を探しに黄泉の国に行って、さまざまな〈母の代理表象〉たちと出会い、彼女らと共に黄泉の国を冒険した後、母を断念して、現実世界に帰還する」ということになる。

 少年が母を探して「黄泉の国」を旅するという物語はたぶん世界中の神話にある。それは世界中のすべての集団に少年のための「通過儀礼」があるからである。

 子どもたちはそれまで心穏やかに暮らしていた「母親との一体化した楽園状態」からある日暴力的に引き剥がされて、タフでワイルドな「リアル・ワールド」に送り出される。その経験は子どもたちに深い痛みと悲しみをもたらす。その傷は癒されなければならない。その癒しのための装置が「母との決別/幼児期との決別」の物語である。

 この苦痛はあなた一人のものではない。世界中の子どもたちもまたあなたと同じようにこの苦痛を味わったのだ。苦しんでいるのはあなた一人ではない。その「共苦」の思いが毒性の強い苦痛を少しだけ緩和させてくれる。

 多くの物語では、決別すべき自分の幼児期は「アルターエゴ」として表象される。純粋で、脆弱で、繊細で、道徳心が欠如し、利己的で、魅力的な「友人」がそれである。その「友人」と「僕」は胸ときめくような一夏の冒険を共にする。けれども、夏が終わると、「友人」は何も言わずに「僕」から立ち去り、「僕」は深い欠落感を抱えたまま一人で生きることを決意する。イノセントで甘えん坊のアルターエゴとの別離を通じて少年はタフでクールな「大人」になる。

 アラン・フルニエの『ル・グラン・モーヌ』も、スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビイ』も、レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』も村上春樹の『羊をめぐる冒険』もどれも「そういう話」である。少年時代との決別はふつうはそういう説話的定型をとる。

 ふつうはそういう定型をとる。だが、『君たちはどう生きるか』はそれとは違っていた。たしかに、これも少年が母との離別を受け入れて大人になる物語ではある。けれども、それは幼児的アルターエゴとの別れの物語ではなく、母親との別れの物語という直接的なかたちをとる。少年は「死んだ母親を探しに冥界へ下る」。少年のアルターエゴはどこにも登場しない。出てくるのは「母親の代理表象」たちである(継母ナツコ、母の少年時代であるヒミ、少年の守護者であるキリコさん)。彼女たちはそれぞれに少年が探し求める母の「断片」である。断片であるから、どれも少年が探している「母」そのものではない。

 その三人の「断片的な母」を足したら、「母」の手触りはもう少し確かなものになるのかも知れない。いや、たぶん、それでも少年の手元には何も残らなかったと思う。映画の最後の眞人の非情緒的なたたずまいは「母との再会」がついに果たせなかったことを暗示している。

 

 これまで人々が少年期との決別をストレートな「母との別れ」の物語ではなく、一ひねりした「幼児的なアルターエゴとの別れ」の物語に書き換えてきたのは「母との別れ」は直接過ぎて、つら過ぎて、とても物語にならなかったからである。「母との別れ」を「幼い自分自身との別れ」に書き換えることで、同じ経験を少しだけ耐えやすいものにしたのである。

 それに、「幼児期のイノセントで壊れやすい自分との別れ」という説話定型を採用すれば、「大人」になってしまった後でも、過ぎ去った時代を回想したときに一瞬だけ「無垢な少年」にもどることだってできる。現に、『紅の豚』のポルコも『風立ちぬ』の二郎も、回顧的になると、少年の姿に戻っていた。

 でも、宮崎駿はそういう「出来合いの説話原形」を棄てて、ストレートで、救いのない「母探し」と「母との出会いの失敗」の物語を生涯最後の作品の主題に選んだ。たぶんそれが自分にしか創ることのできない物語だと思ったからだろう。「そういう話はたぶんうまくゆかない」ということが本人にも経験的にわかっていて、たぶん周囲もそう言って制止したと思う。でも、世の中には「やってみなけりゃわからない」ということはある。宮崎駿は確実な成功を狙う人ではなく、「やってみなきゃわからないこと」をやり続けてきた。だから、天才なのだ。

 

 思えば「母探しの物語」は宮崎駿にとっては、高畑勲と組んだテレビアニメ『母をたずねて三千里』から半世紀にわたって続いてきた生涯の主題であった。

 そして、改めて思い返してみると、「少女たちの母親」は主題的な存在になったことがない。『風の谷のナウシカ』のナウシカにも『カリオストロの城』のクラリスにも『天空の城ラピュタ』のシータにも母はいない。『となりのトトロ』のサツキとメイの母はずっと入院中である。『魔女の宅急便』と『千と千尋の神隠し』ではキキの母も千尋の母も、物語が始まると同時に姿を消す。『もののけ姫』の母親は山犬である。

 少年の場合はもっと徹底している。印象的な「少年の母親」を私は宮崎アニメでは見た記憶がない。『もののけ姫』のアシタカにも『天空の城ラピュタ』のパズーにも『風の谷のナウシカ』のアスベルにも『千と千尋の神隠し』のハクにも母親はいない。もちろん、どこかに母がいるからこそ、かれらは存在することになったのだが、母の影は彼らにはない。

 

 母親はいなけれど、「母の代理表象」はいる。『天空の城ラピュタ』のドーラ、『となりのトトロ』のカンタのおばあちゃん、『千と千尋の神隠し』の銭婆、『魔女の宅急便』のパン屋のおソノさんやパイを作る老婦人が宮崎アニメでは「母親代わり」として厚みのある存在感を発揮する。彼女たちは、子どもたちを受け入れ、子どもたちの成熟を支援する。でも、彼女たちは「母親代わり」であって、実母ではない。

 

 上に書いた通り、『君たちはどう生きるか』では、母は三つのキャラクターに分裂している。なぜ母親を三人に分割しなければいけなかったのか、その理由が私にはよくわからない。物語的に考えると、眞人の旅の同伴者はヒミ一人であった方がすっきりしている。それなら、「『母になる以前の母』と手を携えて、『母になったあとの母』を探しているうちに、旅の同伴者である少女に眞人が恋心を抱く」という話になる(かも知れない。たぶん、なる)。

 そのような「決して成就しない恋の物語」なら、母の死による決定的離別を癒すための物語としてうまく機能するかも知れない。前例がないから、成功するかどうかわからないけれども、やってみなければわからない。

 

 でも、残念ながら、少女ヒミの出番は少なすぎて、眞人には彼女に恋するほどの暇がなかった。キリコさんはドーラやおソノさんに通じる人物だけれども、彼女もまた少年を抱きしめて、少年の存在を全肯定し、少年の未来を祝福するところまではゆかない。継母ナツコは