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内田樹さんの「宮崎駿『君たちはどう生きるか』を観て(後編)」 ☆ あさもりのりひこ No.1404

ある種の光は、それをぼんやり見ている人には感知できるが、凝視する人には見えない。

 

 

2023年8月22日の内田樹さんの論考「宮崎駿『君たちはどう生きるか』を観て(後編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 本作は事前の宣伝をしなかったし、物語が難解であるから、ネット上では公開後にさまざまな解釈がなされている。もちろん、そうやって「ああでもないこうでもない」と作品について解釈が出されるのは、端的によいことである。そして、その場合にも、作者自身が「私はこういうつもりで創った」という自作自註は必ずしも決定的なものではない。作者の解釈が一般の観客の解釈に優越することはない。なぜなら、本当の天才は自分でも思ってもいないことを作品内で実現してしまうからだ。それはしばしば物語の筋とはかかわりのない細部の描き込みであったり、登場人物の名前の音韻であったり、後ろを通り過ぎるものの造形であったりする。意識の最も深い層にあるものはしばしば表層に露出する。それは作家本人の統御を離れて画面の上に華やかに展開するのである。そして、不思議なことに、ぼんやりした観客ほどそれを見逃さない。

 アニメの解釈に文学史的知識をひけらかすのは無作法だということはわかっているけれど、ジャン・ポーランは『タルブの花』にこう書いていた。

 

「ある種の光は、それをぼんやり見ている人には感知できるが、凝視する人には見えない。」

 

 これは文学作品についての話だけれど、アニメでも事情は変わらないと思う。「ぼんやり見ている人」にこそよく見えるものがこの世にはある。そして、宮崎アニメが世界を席巻したのは「ぼんやり見ている人」こそ宮崎アニメの最大の愉悦者であるという逆説が成立していたからである。私のようにあれこれ七面倒くさい解釈をする人間よりも、何の邪気もない子どもの方が宮崎アニメを深く享受できるのである。

 でも、『君たちはどう生きるか』は「ぼんやり見ている人」には自分が何を観たのかがよくわからないのではないかと思う。この作品が何を「発光」しているのかを知るために私たちは「凝視」を求められる。けれども、それは果たして宮崎駿自身が望んだことなのだろうか。

 宮崎駿はこれまでもはっきりと自分のアニメは日本の子どもたちを想定観客にして作られたものだと言い切ってきた。大人が解釈をしないと物語の意味がわからないようなものを宮崎駿は作る気がなかったはずである。子どもでも楽しめて、エンドマークが出たときに小学生でも「ああ、面白かった」と笑いはじけるような作品をめざしてきたはずである。その点から言うと、『風立ちぬ』も本作ももう「子ども向け」とは言い難い。

 

 本作が「子ども向け」でないと思える理由は、難解というだけではない。実はこれまでの宮崎アニメに必ずあったものが二つ足りない。それは「かわいいトリックスター」と「空飛ぶ少女」である。

 宮崎作品には必ず「かわいいトリックスター」が出てくる。

 トリックスターというのは人間の世界とこの世ならざる世界を架橋する存在である。だから、神話学的には「気味の悪いもの」である。二つの世界の属性を一体のうちに有するハイブリッド生物だから気味が悪い造形であって当然である。でも、これまで宮崎駿はトリックスターを「かわいく」造形してきた。そのせいで、主人公たちが現実界と異界の境界線を自由に往き来することに観客は違和感を覚えずに済んだ。

 現実世界と「この世ならざる世界」の境界線の往き来をファンタスティックで浮遊感のある映像体験に仕立てたのは、何よりもこの「かわいい造形」の手柄であったと私は思う。例えばトトロがあのころころふにゃふにゃしたものではなくて、もっとごつごつしたり、冷やりとした手触りのものだったら、あの映画はもっと「気味の悪いもの」になっていたはずである。『魔女の宅急便』の黒猫のジジも、『もののけ姫』のコダマも、かわいかった。

 でも、『君たちはどう生きるか』には「かわいい成分」が足りない。見ているだけでうれしくなってしまうほどかわいい生物はここには出てこない。本作にはコダマに似た白い「ワラワラ」が出てくるけれど、コダマほどかわいくない。ペリカンも、インコも別に「かわいい」という類のものではない。この作品におけるトリックスターはアオサギだけれど、これの本態は醜怪な容貌の中年男である。正邪、善悪の区切りになじまないという点では、トリックスター性はしっかり備えているのだけれど、造形的にかわいくないので、アオサギが画面に出てくるのを心待ちにしていたという観客はあまりいなかったと思う。

 

 本作でもうひとつ登場しなかったのは「空飛ぶ少女」である。宮崎アニメはクライマックスシーンで少女が空を飛ぶ。それが今回はなかった。飛ぶのは少女だけではない。「飛ぶはずがないもの」であれば、何でもよい。

 宮崎アニメでは「絶対飛ぶはずのないはずのもの」が飛ぶ。「飛ぶはずがないもの」が物理法則に逆らってふわりと浮き上がり、加速して、やがて雲の間を気持ちよく滑空する。「飛ぶはずがないもの」がまるでほんとうに宙に浮いているかのように「見せる」ことに宮崎駿はその作画技術を惜しみなく投じてきた。

 ナウシカのメーヴェもキキの箒も峰不二子のグライダーもポルコの飛行艇も二郎少年の手作り飛行機も、どれも「飛ぶはずがない」状況で飛ぼうとする。そのときに観客たちは「飛べ、飛べ」と手を握り締めて祈る。そして、この祈りは必ず聴き届けられる。ふわりと「浮くはずのないもの」が浮くとき、観客は自分たちの祈りが実現したと感じる。映画の中の出来事が他人ごとではなく、自分たちの祈りに直結していると感じる。そうやって観客は映画の中に、その構成員のひとりとして巻き込まれる。気づかぬうちに映画の中に没入している。その観客を映画の世界の中に巻き込む技術において宮崎駿は天才であった。

 でも、残念ながら、そのようなコミットメントの感覚を『君たちはどう生きるか』では観客は得ることができなかった。眞人は遂に空を飛ぶことがないからだ。映画の終わり間近に階段が崩落する場面があった。これまでの宮崎アニメだったら、主人公は決して墜落しなかっただろう。ルパン三世もパズーも崩れ落ちる階段をほいほいと駆け上った。アシタカは岩を飛んでシシ神の身体から流れ出る瘴気を軽々と避けた。でも、眞人は階段といっしょに墜落して、石材の山に埋もれてしまった。

 主人公が「飛ばない」というのは、観客の祈りが届かないということである。『魔女の宅急便』でキキが時計台にしがみつくトンボ君を救うために、近くにいたおじさんの箒を借りて、「飛べ!」とつぶやくときのあの言葉は、宮崎アニメを見ている多くの観客が主人公とともにつぶやく言葉であり、これまで観客が強く念じたことは映画内では必ず実現した。今回は祈りが届かなかった。むろんそんなのは作品の質とは関係のないレベルでのことだけれども、観客が映画の中に想像的な仕方で「参加する」という愉悦を得ることができなかったのは事実である。

 

 

 宮崎駿は「母探しとその挫折」という、おそらく彼にとっては強い必然性があるテーマにまっすぐに向き合った。『母をたずねて三千里』以来半世紀にわたってこの主題を宮崎駿は「棚上げ」してきた。そして、今回封印を解いて、ストレートな「母探し」の物語を作った。その必然性については「個人的なこと」だから、余人が問うことではないと思う。ただ、「こうすれば観客は喜ぶ」ということを職人としての宮崎駿は熟知していたにもかかわらず今回はそれを自ら封印した。この封印は意識的なものであることは間違いないと思う。どうして、「こうすれば観客は喜ぶ」仕掛けをあえて封印したのか、それについては宮崎駿自身の言葉を私は聴きたいと思う。そして、それを読んで「ああ、なるほど、そうだったのか! こんな皮相な解釈をして、オレはあさはかだった・・・」と髪をかきむしるという経験をぜひしたい。ほんとうに。