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内田樹さんの「受験についてのインタビュー」(前編) ☆ あさもりのりひこ No.1406

相対的な優劣をどれほど激しく競わせても、それによって集団全体の知的なパフォーマンスが向上することはない

 

 

2023年8月29日の内田樹さんの論考「受験についてのインタビュー」(前編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

ある教育雑誌から受験についてのインタビューを受けたので、採録。

 

――今の教育や受験制度についてどう思われますか。

内田 受験は、同学齢集団内部で「誰でもができること」を「他の人よりうまくできる」競争です。でも、「競争」と「学び」は違うものです。そして、僕が経験的に言えるのは、相対的な優劣をどれほど激しく競わせても、それによって集団全体の知的なパフォーマンスが向上することはないということです。競争を強いると個人的には力を伸ばす人もいますが、集団全体としては弱くなる。

 僕がかかわっていたフランス文学研究の世界でも、就職が難しくなってきてから、受験同様、研究者の間で優劣を競うようになりました。限られた教員の専任ポストを巡っての競争ですから、当然厳密な査定が必要になります。そして、精度の高い査定をするためには、「研究者ができるだけ多い分野」で「他の人より優れた業績」を上げることが求められます。当然ですね。できるだけ母数が多い集団に属している方が、競争は厳しいけれども、査定の客観性は高くなる。僕のように「他に誰も研究する人のいない分野」を研究する人間は、うっかりすると仏文学界内部では「母数ゼロ」になる。比較する対象がいないから「査定不能」とみなされる。「査定不能」ということは「零点」と同義です。

 それでは困るので、精密な査定を求める若い研究者たちが19世紀の小説に集中することになりました。この分野には日本人の研究者で世界レベルの学者が揃っていたので、査定が厳密であると信じられていたからです。

 査定が厳密であるのはむろんよいことです。でも、その結果、若く野心的な研究者たちは査定の厳密な分野に集中し、専門家以外にはさっぱり意味のわからないトリヴィアルな研究に打ち込むようになった。

 その分野での研究レベルはたしかに向上しました。レベルは向上したのですが、フランス文学科に進学してくる学生はむしろ減ってしまった。当たり前ですよね。だって、学会内部で「内輪のパーティ」をしているわけですから、日本の中学生や高校生に向かって「フランス文学研究って面白いよ。君たちも仏文科に来て、いっしょに楽しく勉強しようよ」と語りかける学者がいなくなってしまった。

 でも、日本の子どもたちに向かってフランスの文学や哲学に触れることがいかに愉快な知的活動であるかを告知し宣布する仕事を仏文学者がしなければ、そんな面倒な仕事は誰も代わってはしてくれません。そして、競争や査定に夢中になっているうちに、はっと気がついたら、大学の仏文学科に進学してくる学生がいなくなってしまった・・・    

 進学してくる学生がいなければ、仏文学科を設置しておく理由がありません。仏文学者のための大学教員のポストそのものがなくなってしまった。そんなふうにして、仏文学科でレベルの高い競争をして、限りあるポストを争っているうちに、仏文学科そのものがこの世から消滅してしまった。笑えない話です。

 学問は集団全体の知的パフォーマンスを向上させるために存在します。仮に卓越した学者がいても、彼らの業績の価値が集団的に認知され、知的資源として「公共的に」利用される手立てが整っていなければ、その業績は生かされない。重要なのは集団的なしかたで知性を活性化させることです。

 

 受験勉強も同じです。「みんながしていること」を「他の人よりうまくやる」競争ですから、特定分野での知識や技能は向上するでしょう。でも、集団全体の知的水準は下がります。だって、「他の人がしないこと」に興味を持つことに対して強い規制がかかるからです。「そんなことをしても受験の役にまったく立たないぞ」という言葉で、子どもたちのさまざまな知的関心が抑制されてしまう。

 でも、人類の歴史が教えているのは、「さしあたりは受験の役に立たない」ような知的活動がしばしば集団的な規模での知的ブレークスルーをもたらしてきた。受験勉強をさせることには社会的な意味があることは僕も認めます。でも、その代償として、場合によっては致命的な知的リスクを集団的な規模で引き受けているということについてはもっと警戒心を抱くべきだと思います。

 

――いま重要視されている英語教育についてはどうでしょうか?

内田 いまの英語教育は、外国語の学び方としては目指している方向が違うように思います。外国語を学ぶことはとても大事です。人間的成長のためには「不可欠」と言ってもよい。でも、今学校でやっている英語教育は「人間的成長」ということを目標にはしていないように思えます。

 外国語の学習には「目標言語」と「目標文化」があります。「目標言語」が英語の場合、目標文化は「英語圏の文化」です。その言語を学ぶと、それを足場にしてその言語圏の文化の深みにアクセスできる。母語の外に出て異文化圏に入り込み、母語とは違うロジック、違う感情を追体験すること、それが外国語を学ぶことのもたらす最大の贈り物です。母語には存在しない概念に出会い、母語には存在しない時間意識や空間意識の中に入り込み、母語には存在しない音韻を母語を語っている限り決して使わない器官を用いて発音する・・・。これはどれも知性的にも感情的にもきわめて生産的な経験です。

 例えば、フランス語には複合過去と半過去という二つの過去時制がありますが、このニュアンスの違いは日本語話者にはなかなか理解できません。過去時制が二つあるのは、フランス語話者が時間の流れを「完了」と「未完了」の二つの相で理解するという特異な時間意識を持っているからです。時間意識が違えば、世界の見え方も違うし、人間の行動の解釈も違うし、極論すれば宇宙観まで変わる。

 自分たちとは全く違う枠組みを通じて世界を見ている人たちがいるという事実を知ることは、個人の人間的成長だけでなく、人類が共同的に生きてゆくためには必須のことです。

 外国語学習は何よりもまずそのような人間的事業として営まれるべきだと僕は思いますが、現在行われている英語学習は「リンガフランカ」としての英語、コミュニケーションツールとしての英語の習得が目的化していて、もはや「目標文化」というものがありません。「目標言語」はあるが、「目標文化」はない。

 実際に、ある時期から大学の英米文学科に進学する学生の選択理由のほとんどが「英語を習得して、英語を活かした職業に就きたい」になりました。英米文学を研究したいという理由で学科選択をする学生が全体の数パーセントしかいないということなら、英米文学科には存在理由がありません。英米文学科に進学するよりもネイティブ・スピーカーが教える英語学校に通った方がいい。その方が学費も安いし、無駄な単位を取る必要もない。そうやって日本中の大学からいま英米文学科が消えつつあります。

 

 繰り返しますが、コミュニケーションツールとして英語を学ぶことは端的に「よいこと」です。でも、「目標文化」を持たない外国語学習をいくらしても、それは学習者のアイデンティティーをより強固にすることはあっても、母語的なものの見方を揺るがされて、自己刷新に導かれるということはないと思います。でも、それは真の意味での「学び」とは言えない。