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内田樹さんの「受験についてのインタビュー」(後篇) ☆ あさもりのりひこ No.1407

「学ぶ」とは自分自身を刷新してゆくことです。

 

 

2023年8月29日の内田樹さんの論考「受験についてのインタビュー」(後篇)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

――真の意味で「学ぶ」とはどういうことをいうのでしょうか。

内田 多くの人は、「学ぶ」というのは所有する知識や情報や技術の総量を増やすことだと思っていますが、それは違います。「学ぶ」とは自分自身を刷新してゆくことです。学んだことによって学ぶ前とは別人になることです。学ぶことによって語彙が変わり、感情の深みが変わり、表情も発声もふるまいもすべて変わることです。「コンテンツ(内容物)」が増加することではなく、「コンテナ(入れ物)」そのものの形状や性質が変わることです。

「呉下の阿蒙」という話があります。中国の三国時代の呉にいた呂蒙将軍は勇猛な武人でしたが学問がありませんでした。呉王がそれを惜しんだことに発奮して、呂蒙は学問に励みました。久しぶり会った同僚の魯粛は呂蒙の学識教養の深さに「かつての君とは別人のようだ」と驚きます。すると呂蒙は「士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし」と応じます。学ぶ人間は三日会わないともう別人になっているので、目を見開いて見なければならない、と。

 昔はこのたとえ話をよく学校の先生が語りました。学ぶとは別人になることだという考え方は1960年代くらいまではまだ生き残っていたようです。でも、今の日本の学校でこの話をする教師はまずいません。もう「学びを通じて別人になる」という考えは日本社会では共有されていないからです。人間は変わらないまま知識や情報が増え、技能や資格が身につく。そういう「学び」観が支配的です。

 

 別人になることへの強い抑圧の力は友人同士の間でも働いています。学校に入って、新しいクラスや部活で、新しい友人グループができると、一人ひとりに「キャラ設定」がなされます。与えられたキャラを忠実に演じている限り、グループ内には居場所が保証されます。でも、与えられたキャラから逸脱することには強い抑制が働く。

 思春期に子どもはどんどん変化します。身体つきも変わるし、声も変わるし、感情の分節も変わる。読む本も聴く音楽も観る映画も変わる。でも、キャラ変更は原則として許されません。グループの「和」を乱すから。だから、友だちに別人になりそうな予兆が見えると周りは「らしくないことをするなよ」「らしくないことを言うなよ」というかたちで変化を阻止しようとする。友だちの変化を否定的にとらえるのは、とても危険なことだし、不幸なことです。変化することは自然なことなんです。それは祝福してあげるべきことなんです。

 

――社会はどんどん変化する中で、どのように生きていけばいいのでしょうか。

内田 「夢を持て」「夢を語れ」と言われると高校生たちは暗い顔になるそうです。それはそこで「夢」という言葉で指示されているのが、単なる「人生設計」のことだからです。どの学校でどんな専門を学んで、どんな職業に就くか、それを早く決めろと急かされている。早く人生を決めて、決めたレールの上を走って、そこからは外れるなと言われてうれしがる子どもはいません。

 それに、「夢を持て」と言ったって、子どもたちはこの世にどのような学術分野があるか、どんな仕事があるかを知りません。世の中がどういうものかを知らない段階で、「この世の中で、どういう立ち位置を選ぶのか、はやく決めろ」と強制するのはほとんど虐待です。

 ですから、中学生高校生に「将来何になりたい?」というような質問を不用意にすべきではないと僕は思います。そこでうっかり口にした言葉に自分自身が呪縛されるということがあるからです。10代の頃になんか、将来のことなんか決めなくていいんです。天職というのは、自分で決めるものではなくて、仕事の方から呼びかけてくるものですから、気長に待っていればいい。

 

――進路や将来就きたい職業について、どう考えていけばいいのでしょうか。

内田 これからの世界で、どんな職業が生き残り、どんな業界が消えるか、それは誰にもわかりません。「この専門を勉強すれば、一生食うに困らない」というような専門分野は残念ながら存在しません。ですから、「あまりやりたくないけれど、この職なら食えそうだから」というような理由で専門を選ぶべきではありません。「やりたくない仕事」の専門家に我慢してなったけれど、それでは「食えなかった」というのでは、救いがありません。

 なかなか「やりたい仕事」は決められないでしょうけれども、「やりたくない仕事」「これは無理」という仕事は高校生だってわかるはずです。とりあえずは、それを選択肢から外してゆけばいい。

 それに僕たちが仕事を選ぶときの基準は実は「業種」じゃないんです。それよりもオフィスの雰囲気とか、着ている服とか、同僚とのおしゃべりの話題とか、そういう具体的な日常の空気感で「できる仕事/できない仕事」を選別している。

 僕の妻は能楽師ですが、前に能楽師になった理由を聞いたら、「着物を着る職業だったらなんでもよかった」と教えてくれました。仲居さんでも舞妓さんでもよかったんだそうです。そういうものですよ。 

 僕は二十代で友人と翻訳会社を起業しましたが、正直言えば、業種は何でもよかったんです。定時になったら仕事を終えてみんなでコンサートに行ったり、麻雀やったり、日曜に多摩川の河原で野球やったり、バイクでツーリングに行くような会社を作りたかったというだけです。それが翻訳だったのは「たまたま」です。だから、そのあとその会社の業態はどんどん変わり、出版や広告までやりました。

 僕が大学の教師になったのも、ほとんど偶然です。大学院に進学したのは「モラトリアム」のためです。卒業しても就職する気なんかなかった。でも、ただの無職ではちょっと格好が悪いので、大学院にでも行こうかと思った。ところが院の入試には落ちて、大学を卒業してから院に受かるまでの二年間は無職でした。

 大学院に入ったときに、同時に起業したので、最初のうちは会社経営の方が面白くて、院の授業には全然出ないで、単位もとれないし、成績もひどかった。でも、修士論文を書く時期を迎えて、これくらいはちゃんとしたものを書こうと思って、会社を休んで、半年ほど家にこもって、ひたすら文献を読んで、論文を書くという時間を過ごしました。そしたら、その時間がほんとうに楽しかった。こうやってひたすら本を読んで、原稿用紙のます目を埋めてゆくことが職業になったら楽しいだろうなあと思って、その時に博士課程に進学しようと思うようになりました。

 さいわい、修士論文は先生たちからわりと高く評価されて、無事に博士課程に進み、その後は研究中心の生き方をするようにしていたら、さいわい三年目に助手に採用されて、「大学教員」というものになりました。それが31歳のときです。ふつうの学生が就活して定職に就くより10年遅れたことになります。でも、僕はぜんぜんこの「遠回り」を無駄だと思っていません。

 大学院浪人の時に翻訳をして生計を立てたことも、その縁で小学生からの親友である平川克実君と起業することになったことも、まったく無駄ではなかった。その間に結婚して、子どもができたり。多田宏先生という傑出した武道家に出会って、合気道という武道を始めて、稽古に明け暮れたことも、どれを欠いても、それからあとの僕の人生はまったく違ったものになっていたでしょう。どれも「ご縁」があったからだと思います。自分で選んだわけじゃない。どちらかというと「あちらからお声がけ頂いた」ような気がします。

「ご縁」というのは、そういうものです。あちらから「ちょっと手を貸してくれない?」と声をかけられる。僕の場合はこれまでの出来事はなんだか全部そうだったような気がします。その声を聞き逃さないこと。それがたいせつだと思います。