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内田樹さんの「学校図書館は何のためにあるのか?」(その3) ☆ あさもりのりひこ No.1412

「境界線の向こう側まで行って、そして戻ってくる」

 

 

2023年9月9日の内田樹さんの論考「学校図書館は何のためにあるのか?」(その3)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 村上春樹という作家がいますが、彼は「自分は特殊な職能民だ」と言っています。どんな職能かというと、ふつうの人は地下一階までしか行かれないけれど、自分は地下二階まで降りることができる。地下二階まで降りるとそこには太古から流れ続け、いまも世界中に広がっている「水脈」みたいなものがある。そこから自分の持っている手持ちの器でいくばくかのものを掬って持ち帰る。地下二階にはあまり長くいると人間にとっては危険なことがあるので、用事が済んだらさっさと現実世界に戻ってきて、地下二階で経験したことを物語として語ってゆくのが仕事であると言うんです。ただし、その仕事は誰にでもできるわけではなく、そういうことについての職能を身につけた少数の人間がいる。自分はたまたまそういう人間であるということを、さまざまな文学論の中で素直に語っているんです。これはメタファーではなくて、ほんとうにそうだと思うんです。「境界線の向こう側まで行って、そして戻ってくる」。

 村上春樹の書く物語って、全部そうですから。誰かが境界線の向こうに行って消えてしまって帰ってこない話、境界線の向こうから何か危険なものがやってくるので、それを押し戻す話。この二つが繰り返される。どれも境界線、ボーダーラインのこちらとあちらを往き来する話なんです。

 だから、村上春樹の小説にはほぼ全部「幽霊」が出てきます。「幽霊」というか、「この世ならざるもの」が登場してきて、主人公はそれとどうやって応接するかいろいろ工夫する。『羊をめぐる冒険』からずっとそうなんですけども、決定的になったのは、河合隼雄との対談『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』からのような気がします。

 この対談の中で、村上春樹が『源氏物語』について河合隼雄に「源氏物語に出てくる悪霊とか生霊とかいう超現実的なものは、当時の人々にとって現実だったんでしょうか」と質問したら、河合隼雄が「あんなものは全部、現実です」って即答するんです。

『源氏物語』には生霊が出てきますね。葵上や夕顔は六条御息所の生霊に呪い殺される。生霊や悪霊で人が死ぬというのは、平安時代においては、ふつうの現実だったと、河合隼雄さんはさらっと言い切った。この断言を聴いたことが村上春樹には大きな自信を与えたと思います。そうか、幽霊の話ばかり自分が書いているのは、あれは「全部、現実」の話だったんだ、と。

 村上春樹自身、自分の文学的系譜をたどると、上田秋成に至ると言っています。明治からの近代文学を全部飛ばして、いきなり上田秋成なんです。そして、上田秋成の書く話ってどれも「この世ならざるもの」が人を殺したり、人がそれから逃れたり、それと交渉したりという話なんです。

 その上田秋成の直系の文学的系譜に自分は連なる者であると言うんです。ご本人がそう言うんだから、そうなんだろうなと思います。

 上田秋成も当時は孤立していたわけです。当時も儒学者たちは合理主義者ですから、上田秋成が書いている「幽霊の話」をせせら笑った。そんなものは愚かしい妄想だ、と。でも、上田秋成は、間違いなく「この世ならざるもの」には現実変成力があって、それで現実の人間は生き死をするということに確信を持っていた。

 上田秋成の文学的価値の再評価を、21世紀に入って村上春樹がするわけなんですが、その前の1960年代に上田秋成を高く評価して、日本文学の淵源はここにあると言った人がいます。江藤淳なんです。

 江藤淳はプリンストン大学に留学して、そこで日本文学の授業をしていたんです。英語で授業をしたり、英語で論文を書いたり、滞在の終わりの頃には英語で夢を見たりするくらい英語の世界に浸っていたんですけれど、英語ではほんとうに自分が書きたいことは書けないということに気がついて、日本に帰ってきます。その時に書いた文章の中で、自分はかなりうまく英語を操ることができるし、それで自分の意見を述べたり、対話したりすることはできる。でも、英語では新しい文学を創造できないということがわかった、何か文学的なイノベーションができるのは日本語によってだけだ、と。

 日本語の淵源がある。江藤はそれを「沈黙の言語」と呼びましたが、そういうものがある。古代から現代まで、日本列島で話されたり、書かれたりしてきたすべての言葉の全部がそこに集積されている。巨大な、底なしの「淵源」がある。日本語を母語とする人間はそのアーカイブにアクセスすることができる。

 江藤淳は英語話者たちとコミュニケーションはできるけど、自分自身の中に英語の「沈黙の言語」がない。だから、英語では創造することができない。そのことに気づくのです。このアーカイブにアクセスできるのはそれを母語とする人間だけなんです。そして、日本に帰ってきて、いきなり上田秋成の話をし始めるんです。井原西鶴とか近松門左衛門とか、あんなものは全部ダメだ、上田秋成がいいって。もし日本から世界文学が出るとしたら、それは上田秋成の系譜からしか出てこないと予言するんです。そして、その予言の60年後に村上春樹が登場する。不思議な話です。 

 

 すみません、もう少し村上春樹の話を続けますね、面白くなってきたから。村上春樹の作品で最初に「この世ならざるもの」とのかかわりを書いたのは『羊をめぐる冒険』です。この作品を書き上げたことで村上春樹は専業作家になってやっていける自信がついたと書いています。それまではジャズ喫茶のオーナーとの兼業作家だったのだけれど、専業になって朝から晩まで好きなだけ小説を集中的に書ける環境に身を置けるようになった。そして、ある日、自分が「鉱脈」に近づいた実感があった。毎日コツコツとのみを振って岩をくだいているうちに、だんだん地下水脈、地下鉱脈に近づいていった実感があったとインタビューで話しています。

『羊をめぐる冒険』は結果的には世界文学になったんですけど、これは世界文学の系譜の直系という「鉱脈」に連なる作品だったからです。村上さんご本人は自覚していないかも知れませんけれど、『羊をめぐる冒険』には同じ系譜の世界文学がいくつもあるのです。

 直近のものはレイモンド・チャンドラーの『ザ・ロング・グッドバイ』です。そのチャンドラーにも先行作品があって、スコット・フィッツジェラルドの『ザ・グレート・ギャツビー』です。この三つはほとんど同じ話なんです。ちょっとわかりにくいんですけれども。『羊をめぐる冒険』ですと、「僕」という主人公がいて、「鼠」という親友がいますけれど、これは「僕」のアルターエゴなんです。傷つきやすくて、純粋で、道徳心にやや欠けたところがあるけれど、きわめて魅力的な男なんですが、それは「僕」の「少年時代」、アドレッセンスなんです。その幼い自分自身と決別しないと「僕」は大人になれない。アルターエゴは「僕」がこのタフでハードな世界で生きていくために切り捨てた、自分の一番柔らかい、一番優しい部分のことなんです。

 そのおのれのアドレッセンスを人格的に表象したのが、「鼠」であり、テリー・レノックスであり、ジェイ・ギャツビイなんです。彼らはみな大人になるために主人公が切り捨てていったアドレッセンスの代理表象です。アルターエゴは主人公に向かって「最後に1つだけ君に頼みがあるんだ」と言ってきて、主人公がそれを果たすと、アルターエゴは消え去る。この三つはどれも「そういう話」なんです。

『羊をめぐる冒険』が1982年、『ザ・ロング・グッドバイ』が1953年、『ザ・グレート・ギャツビー』が1925年の作品です。でも、これにも先行作品があります。『ル・グラン・モーヌ』というアラン・フルニエの小説です。これは1913年の作品です。主人公の年齢はかなり下がります。主人公はフランソワという15歳の少年で、彼の前に背が高く、魅惑的で、自由奔放なオーギュスタン・モーヌという少年が現れて、フランソワは彼に魅了されて、冒険の日々を共にするのだけれど、ある日オーギュスタンは去って、永遠に姿を消す。

 永遠に姿を消すのは当然なんです。だって、それは自分自身のアドレッセンスだから。少年時代が終わって、「つまらない大人」たちの仲間になる時に、その黄金の日々を惜しむ気持ちが「ある日永遠に僕の前から消えてしまう魅惑的で、道徳心に欠けた、幼児的な少年」を造形させたのです。

 つまり、20世紀に入って、「同じ話」が4つ書かれているんです。たぶんその前を探せば、『グラン・モーヌ』の前にもそれに先行する作品があると思います。あって当たり前なんです。少年はいつか大人の仲間入りをしなければいけない。通過儀礼を通過して、自分の輝かしい少年時代と永遠に決別しなければならない。その喪失の悲しみと痛みを癒すためには「少年時代」を人格的に表象する魅惑的なアルターエゴとの別れの物語が必要だったんです。ユダヤ教だと割礼というイニシエーションがありますけれども、あれは少年時代との決別は身体的な激しい痛みを伴う経験だということを教えているわけです。

 少年時代との別離はトラウマ的経験ですから、大人になっても外傷は残る。だから、どうしてもそれを癒すための物語が必要になる。たぶん「そういう話」は世界中を探したら何千とあると思います。人類が通過儀礼という制度を創り出してからあとずっと「そういう話」に対する需要はあったはずなんです。だから、それは「鉱脈」なんです。太古から続いている、すべての男たちの「こういう物語を書いて俺を癒してくれ」という願いに応えるものなんですから、それにたどりついたら、世界文学になる。

 

 物語にはいろいろな機能がありますけれど、アルターエゴとの別れの物語は「少年時代の自分を供養する」というかなり宗教的な機能を果たしていると思います。失われた少年期を供養する物語を、通過儀礼を過ぎて「つまらない大人」になってしまった世界中の男たちは求めていた。だから、このタイプの物語を書くのは男の作家のはずなんです。女性作家のもので「アルターエゴとの別れの物語」を僕は読んだ記憶がありません。もしかしたらあるかもしれません。ご存知の方がいたら教えてください。