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内田樹さんの「学校図書館は何のためにあるのか?」(その4) ☆ あさもりのりひこ No.1413

母語で書かれた書物というのは、古代から続く巨大な言語的アーカイブへの入り口です。

 

 

2023年9月9日の内田樹さんの論考「学校図書館は何のためにあるのか?」(その4)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 母語で書かれた書物というのは、古代から続く巨大な言語的アーカイブへの入り口です。日本語の場合なら、母語のアーカイブは、過去に日本列島に人が住み始めて、そこで最初に言葉を発した瞬間から、この列島の空間内で発されたすべての音声や、書かれたすべての文字を集積しているものです。そのアーカイブの一番上澄みのところに現代日本語がある。現代日本語はその「沈黙の言語」から浮かび上がった「泡」のようなものです。だから、現代日本語を母語とする人はちょっと言語感覚を敏感にして集中すれば、日本の古典は読めるはずなんです。もちろん戦前の文学だってすぐに読めるし、漱石鴎外だってすぐ読めるようになるし、そのうち上田秋成だって読めるようになる。同じ日本語で書かれているんですから、分からないはずがない。

 僕は何年か前に『徒然草』の現代語訳をやったことがあります。池澤夏樹さんの『個人編集日本文学全集』という企画があって、『徒然草』を訳してくれって頼まれたのです。『枕草子』を酒井順子さんが、『方丈記』を高橋源一郎さんが訳すという組み合わせでした。

 池澤さんに頼まれて嫌とは言えませんから引き受けたんですけれど、古文なんて久しく読んだことないし、『徒然草』だって駿台予備校で断片を読んだきりですからね。でも、覚悟を決めて現代語訳を始めたら、これが、結構さらさら訳せるんですよ、驚いたことに。今から700年以上前に書かれたものなのに、古語辞典1冊あれば訳せちゃうんです。

 その時思ったのは、吉田兼好を今タイムマシンで現代日本に連れてきても、多分、3週間ぐらいで現代日本語をすらすらと話すようになるだろうなということでした。だって、もとは同じ日本語ですからね。文法構造同じだし、音韻同じだし。だから知らない単語聴いても、「ああ、あの単語がこう変化したのね」とすぐに分かる。吉田兼好くらい賢い人だったら、たぶんすぐに現代日本語のネイティブスピーカーになれると思うんですよ。

 だから、僕だってタイムマシンで鎌倉時代に連れて行かれても、一月くらい暮らしたらネイティブスピーカーと同じようにしゃべれるようになるんだと思います。朝から晩まで『徒然草』を読んでいるのも、想像的にはタイムマシンで鎌倉時代に戻ったのとあまり変わらない。そうなると、何が書いてあるかってわかるんです。知らない単語でも何となく意味が分かる。

 そうやって訳した後に、「『徒然草』の現代語訳を終えて」という講演を頼まれたことがありまして、今みたいな話をしたんです。そしたら、質疑応答の時間にフロアの方から手をあげた人がいて、その方高校の国語の先生だと名乗ったんですけれど、「私、実は『徒然草』が専門で、この間『徒然草』の研究で博士論文を出したばかりです」と言うんです。わあ、困ったことになったと思ったら、その先生が「内田さんの現代語訳は大変よろしかった」と言われて、ああ良かったと(笑)。「特に係り結びの訳し分けが良かった」とおっしゃるんです。それでびっくりしました。係り結びのことは文法知識として知ってるんですけども、訳し分け方がなんか5種類ぐらいあると言うんです。僕は係り結びに複数のニュアンスがあるなんて知らなかった。ところが、その先生によると、僕の係り結びの訳し分けは実に正確だったそうです。訳せたのは、僕に文法知識があったからじゃなくて、日本語としてふつうに読んでたからなんですね。その時に、「ああ、母語ってそういうもんだな」ってしみじみ思いました。母語話者であれば、どの時代のものでも、ちょっと慣れれば読めるようになる。元は同じ「沈黙の言語」から由来するんですから。

 

 あと、母語じゃないとできないことがあって、それはネオロジズムです。新語を作ることは母語でしかできない。これに気が付いたのはね、もう10年以上前なんですけど、野沢温泉にスキーに行って、露天風呂につかっていたら、あとから大学生と思しき男子が2人やってきて、ドボンと露天に使った瞬間に、「うゎー、やべえー」って言ったんです。

「やばい」というのは犯罪者の隠語で「危険である」という意味です。犯罪者の隠語が市民社会に入ってきて、ふつうに使われるようになった。隠語の市民語化というのは必ず起きるわけですけれども、「やばい」の場合は、それを通り抜けて「たいへん気持ちがよい」にまで転義してしまった。そうか、そういうふうに意味が変わったのかとその時に思ったのですが、それと同時に、どうして意味が変わったことが僕にわかるのだろうか、とその方がむしろ不思議に思えたのです。だって、聞いた瞬間に、「やばい」が「大変気持ちがいい」という新しい意味を獲得したことが僕にわかったからです。事実、いま手元の国語辞典で引くと「やばい」の項目には「若者言葉」として「大変気持ちが良い」「最高である」ってもう登録してあるんです。

 新語という現象のすごいところは「聞いた瞬間に初めて聴いた言葉なのに意味がわかる」ということなんです。聴いて「それどういう意味ですか」と聞き返さないと意味がわからないのは「新語」にならない。

「真逆」もそうです。これは、忘れもしない、初めて聞いたのは、『SIGHT』っていう渋谷陽一さんがやっている雑誌の対談で、高橋源一郎さんとしゃべっている時です。源ちゃんが「まぎゃくに」って言ったときに「まぎゃく」という音を聴いたのは生まれて初めてだったんですけれども、「真逆」という文字列がすぐ頭に浮かんで、それが「正反対」よりもちょっと強い意味だというニュアンスの差まで全部わかった。

初めて聴く言葉なのに意味もニュアンスもわかるって、奇跡的なことじゃないですか。でも、そのことを僕らは日常ふつうにやっているわけです。誰かが最初に言い出してから、たぶん数週間か数か月のうちに北海道から沖縄まで、日本中の人が「真逆」を使い出した。

 その時に、「母語ってすごい」と思いました。新語も母語のアーカイブの中から湧き出した「泡」みたいなものなんです。母語のアーカイブの中で醸成されたものが、ある日誰かの口からぽって出て来た。別に「新しい言葉を作ってやろう」というような作為なしに、ふと口を衝いて出てきた。それがその瞬間に母語のアーカイブに登録された。

 

新語を作るということは、外国語ではできないんです。どれほど流暢に英語が話せる人でも、英語が母語でなければ、英語の新語を作ることはできない。go - went - goneという不規則変化は覚えるのが面倒だから、これからはgo - goed - goedでいいじゃないかと言い出しても、英語話者からは相手にしてもらえない。「そんな英語ないよ」と言われておしまいです。新語は外国語では作れない。自分自身を作り上げた言語的資源の奥底から自然に湧いてくるものじゃないから。母語のアーカイブの持つ生成力というものを僕はその時にしみじみ思い知りました。江藤淳が「沈黙の言語」と呼んだのは、このことだったのか、と。