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内田樹さんの「学校図書館は何のためにあるのか?」(その6) ☆ あさもりのりひこ No.1416

「お前はほんとに無知だね。だから、思い上がるんじゃないよ」

 

 

2023年9月9日の内田樹さんの論考「学校図書館は何のためにあるのか?」(その6)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 ヨーロッパが舞台の映画を観ると、お金持ちの邸宅の客間って大体壁全部が書棚ですね。そういう映画を何十本、何百本と観てきましたが、そこの家の主人が書棚から本を取り出して読んでるシーンてまずないんです。中には、最近成り上がって富豪になった人間が、貴族の古い屋敷を買い取ってそこに住んでるみたいな設定もありますが、その場合、この書棚の本は家具什器の一部としてたぶん「居抜きで買ったもの」なんだと思います。自分の蔵書じゃないし、別に自分の趣味でもない。でも、目障りだからこれ全部取っ払って古本屋に売ってくれということはどうやらしていない。たぶん「そういうこと」はしてはいけないという無言のルールがあるから。

 ヨーロッパでは、功成り名遂げて、古くからある大きな屋敷を買い取った人間は必ずその屋敷の前の持ち主たちの蔵書に囲まれて暮らさなければならないという暗黙のルールがあったんじゃないかと思うんです。書斎で仕事をしていて、ふと顔を上げると、そこに『プルターク英雄伝』とか『ローマ帝国衰亡史』とかの革表紙の本が並んでいる。でも、この人は読んでないわけですね、それまでビジネスとか政治活動とかに忙しかったから。だから、書斎にある本は全部「読んでない本」なんです。たぶん死ぬまで読まない本。そういう何千冊もの本が毎日この書斎の主人に向かって「お前はほんとに無知だね。だから、思い上がるんじゃないよ」というメッセージを無言で送って来る。

 そういう古典を、きちんと革装して、金箔のタイトルを入れて並べておく理由はそこにあると思うんです。成功した人間は自分が読んでいない書物を見上げるたびに、書物から「お前は成功者として偉そうな顔をしているみたいだけれど、ここに集められた知的アーカイブのほんの一部さえ読んでいない。自分が世の中のことをほとんど知らない人間だということは思い知っていたほうがいいぜ」と説教されているような気になる。そういう説教を書物から聞かされることを日課とすること、それがヨーロッパにおいては社会的成功者に課せられた条件だったんじゃないか、そんな気がします。

 

 日本の場合には「旦那芸」というものがあります。もう今はすっかり廃れてしまいましたが、ある程度偉くなるとお稽古事をしなきゃいけないという決まりがありました。お謡を稽古したり、義太夫をお稽古したり。僕は観世流の謡と舞をもう30年くらい稽古しています。こういうお稽古事はけっこうお金がかかります。若いサラリーマンじゃできない。昔だったら部長さんくらいにならないと月謝やお役料を払えない。でも、ある地位になったらお稽古事をすることはほとんど義務化されていた。

 お稽古事習うと何があるかというと、とにかく先生に叱られるわけです。最初から最後まで先生に叱り飛ばされる。初心者の時はもちろんですけれども、十年やっても二十年やっても、相変わらず叱り飛ばされる。

昨日もお能のお稽古に行ったんですけれど、もう先生に怒られて怒られて。僕だってもう古希を過ぎていて、お迎えが近い年なんですよ。その僕に向かって「努力が足りない」と言うんですよ。ひどいと思いませんか。もう努力できるような体力は残っていないんですけれども、72歳の僕を80歳の先生が叱り続けるわけです。道順が違う、拍子が違う、扇のさばきが違うとか、もっとゆっくりとか、もっと速くとか。ずっと怒られ続けでした。

 でも、先生に怒られるところっていうのは、言ってしまうと、すべて「いかにも僕らしい間違い」なんです。僕という人間の本性が剥き出しになった失敗なんです。ただ不器用とか物覚えが悪いとかいうのじゃないんです。僕の失敗に露呈しているのは、「世間をなめた態度」とか「早呑み込み」とか、まさに僕の人間的欠陥が露呈したところなんです。そこをピンポイントで叱ってくる。

 昨日の場合だと、謡で「かっこうつけるな。いいとこ見せようとするな」ということを叱られました。僕が「ここはこの謡の『聞かせどころ』ですよね。 ここはちょっと声を震わせたりした方がいいんでしょうか」と質問したら、「これだけ稽古してるのにまだ、そういう馬鹿なことを言って」と叱られました。

 その時に、しみじみとお稽古事というのは「叱られるためにお金を払う」という仕組みなんだよなと思いました。謡や舞の技術を身につけることが目的じゃなくて、本当は偉そうにしている男たちに「自惚れるなよ。思い上がるなよ」と頭を叩くという教育的な仕掛けだったんじゃないかな。そういう気がします。

 

 話を書物に戻しますけど、図書館もそういうものだと思うんです。図書館も思い上がりを叱るという教育的機能を担っていると思うんです。これが仮に図書館に行ったら「自分が読んだ本」と「自分がこれから読む予定の本」だけで書架が埋め尽くされていたらどうでしょう。自分の「既知」で埋め尽くされた図書館って、図書館としては無意味だと思うんです。

 図書館って自分が読みたい本を借りに行く場所じゃない、調べ物をしに行く場所じゃない。確かに、そういう機能もありますが、最大の機能は「無知を可視化すること」なんです。「思い上がるなよ」って、来館者の鼻っ柱を折る、「頂門の一針」を打つ。それがたぶん図書館の持っている最大の教育的機能だと思います。

 書物って言うのは「異界に通じる門」ですから、専門家が守らなければいけないわけです。今日いらしているのはみなさん司書の方々ですけれども、実は、あなた方は「ゲートキーパー」なんですよ。知らなかったでしょうけども。みなさんはゲートを守っているんですよ。そして、このゲートの向こう側には結構「やばいもの」が広がっているわけです。だから、素人が着流しで入っちゃ危ないことになる。そのためにゲートキーパーがいる。ここから先は異界が広がっているから、専門家の案内が要るよ、って。

 

 さっきも控え室で僅かな時間に話したんですけど、橋下徹が府知事になってから、図書館の弾圧が始まったわけですけれど、あの人はまず公務員、それから教育と医療と、文楽のような古典芸能・伝統芸能をピンポイントで狙ってつぶしにかかりましたね。この選択って、ある意味たいへん正確だったと思います。彼が狙ったのは、すべて「異界へ通じる道」だからです。「異界へ通じる道」は全部塞ぐ。しょせん世の中は色と欲。権力と財力をすべての人間は求めている。それ以外のものはこの世には存在理由がない。そういう恐ろしいほどチープでハードな世界にすべての人を閉じ込めようとした。彼のあの「異界つぶし」の熱意はたいしたものだと思いました。

 今の学校は子どもたちにテストを課して、その成績で「格付け」する評価機関のようなところになっていますね。でも、僕は子どもたちを査定して、評価して、格付けするというのは、学校教育の目的ではないと思うんです。子どもたちの成熟を支援する場だと思うのです。

 子どもというのは「なんだかよくわからないもの」なんです。それでいいんです。そこから始めるべきなんです。子どもたちをまず枠にはめて、同じ課題を与えて、その成果で格付けするというのは、子どもに対するアプローチとして間違っている。

 昔の日本では子どもたちっていうのは七歳くらいまでは「聖なるもの」として扱うという決まりがあった。渡辺京二さんの『逝きし世の面影』には幕末に日本を訪れた外国人たちが、日本で子どもたちが大切にされているのを見て驚いたという記述がありました。でも、これは日本人は子どもを可愛がっているということとはちょっと違うと思うんです。可愛がっているんじゃなくて、「まだこの世の規則を適用してはいけない、別枠の存在」として敬していたということだと思います。

 中世以来伝統的にはそうなんです。子どもは七歳くらいまでは「異界」とつながる「聖なる存在」なんです。でもある程度の歳になると、そのつながりが切れてしまう。アドレッセンスの終わりというのは、異界とのつながりが切れてしまう年齢に達したということなんです。そうやって人は「聖なるもの」から「俗なるもの」になる。

だから、「この世ならざるもの」とこの世を架橋するものには基本的に童名を付けるという習慣がありますでしょう? 「酒吞童子」とか「茨城童子」とか「八瀬童子」とか。彼らはこの世の秩序には従わない。牛飼いもそうです。牛飼というのは、その当時日本列島に居住する最大の獣である牛を御する者ですから、聖なる存在なわけです。だから、大人でも童形をして、童名を名乗った。京童もそうですね。別にあれは子どもじゃないんですよ。大の大人なんだけれど、「権力にまつろわぬ人たち」だから、子どもにカテゴライズされた。

 あと童名をつけるものというと船がそうですね。「なんとか丸」という。あれは童名なんです。海洋や河川という野生のエネルギーが渦巻く世界と人間の世界の「間に立つ」ものですから、船もまた子どもなんです。子どもは半分野生で半分文明ですから、野生と人間の世界の間に立つことができる。

 あと刀がそうですね。刀には童名をつけるんです。『土蜘蛛』の蜘蛛切り丸とか『小鍛冶』の小狐丸とか、名刀はなんとか丸という童名を与えられる。

 僕は居合をやるので、自分の刀を持っていますが、たしかに刀というのは異界とつながっているということは刀を構えると実感されます。刀を抜いて構えると、自然の、野生の巨大なエネルギーが刀を通じて発動するのが分かります。自分の体がエネルギーの通り道になっているというのがわかる。

 

 刀って、兜とか切っちゃうわけです。でも、人間の筋力で兜なんて切れるわけないんです。でも、兜を切った人っていっぱいいるわけです。刀が斬り込んだ跡がある兜もいくつも残っている。人間の力ではできるはずがないことが、刀を持つとできる。それは、刀を通って発動するのは人間の力じゃなくて、自然の力だからです。それは真剣を持って剣術を稽古したことがある人なら誰でも感じることなんです。刀は自然の力と人間の力の間を架橋する。だから童名をつける。そういう伝統的な「子ども」観が日本にはあった。僕はこれが今まったく顧みられなくなったことを嘆いているんです。