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内田樹さんの「『街場の米中論』のまえがきとあとがき」(後篇) ☆ あさもりのりひこ No.1426

僕が同じ話を繰り返すのは、僕に代わってその「同じ話」を広めてくれる人がほとんどいないからなんです。

 

 

2023年9月25日の内田樹さんの論考「『街場の米中論』のまえがきとあとがき」(後篇)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

「あとがき」

 みなさん、最後までお読みくださって、ありがとうございました。

 いかがでしたでしょうか。なかなか面白かったけれど、「同じ話」が多過ぎる...と僕自身はゲラを通読して思いました。

 本書の中でも同じ話がけっこう繰り返されていますけれども、それだけではなく、他の本に書いている話がここにもよく出てくるんです。読者の方から「あのさ、その話『若者よマルクスを読もう』で読んだよ」とか「それ白井聡さんとの対談本で読んだよ」とか言われそうです。

 学術論文だとこういうのは「二重投稿」と言って、やってはいけないこととされているのです。でも、仕方がないんですよ。この本の元になっているのは、寺子屋ゼミだからです。その日ゼミ生が発表したことについて、その場で僕がコメントをするのですから、いきなり「本邦初演」の話を滔々と語り出すというわけにはゆきません。とりあえず「前に一度した話」を足がかりにして、そこからぽつぽつと話を始めることになります。

 もちろん、「これ、前によそでした話だよな」という自覚は僕にはあるんです。でも、話を聴いている30人ほどのゼミ生のほとんどにとっては「初めて聴く話」です。そういう場合に、「前にどこかで一度した話は二度としない」というような厳密なルールを適用するわけにはゆきません。

 「一つ話」という日本語がありますが、これは「いつも得意になってする同じ話」のことです。こういうのが、僕の場合もやはりいくつかあります。特に、わかりにくい話を筋道立てて説明しようとするとき、ふと思いついた喩え話とか具体的事例を使ったらうまく説明がついたという「成功体験」があると、そういう話はなかなか手離すことができません。

 例えば「アメリカ合衆国憲法は常備軍を認めていない」という話を僕はけっこうあちこちに書いています。これが日本の改憲論者たち(その多くは対米追従を「リアリズム」と思い込んでいる人たちです)に対する批判としてはかなり有効だと思ったからです。実際に、この論件については、「自称リアリスト」の方々から一度も反論を受けたことがありません。みんな、そんな話聞いたこともないような素知らぬ顔をしてスルーしています。その様子を見ると、「なるほどこの例示は有効なんだな。そこは触れて欲しくないところなんだ」とわかる。それが分かると、こちらも「じゃあ、しつこく同じ話をしてやるぞ」という気になる。

 それは仕方ないんです。別に同じ話を繰り返して稿料を稼ごうというような「せこい」ことをしているわけじゃないんですよ。効果的な例示はなかなか手離せないということなんです。そこをご諒察頂きたいと思います。

 アメリカの連邦派と州権派の対立ということもあちこちに書いてきました。読者によっては「おい、またかよ」と眉根をしかめた人もいると思います。お気持ちはわかります。でも、これは現在のアメリカの国民的分断を分析するときには通り過ぎることのできない歴史的事実なんです。なんといっても、そこから以後250年にわたるアメリカの統治原理上の対立と国民的分断が始まっているんですから。

 でも、アメリカの今の政党政治の対立を解説するときに、ジャーナリストは「もとをたどれば今から250年前...」というような話はまずしてくれません。というのは、ジャーナリストの扱うのは「ニューズ」だからです。新奇性と速報性が彼らの提供する情報の主要な価値を形成している。「今から250年前にこんなことがありました」というのは「周知のこと」ですから、ニュースバリューはありません。ニュースバリュー・ゼロのことを書くために限られた紙面を割くことはできない。ですから、彼らは「現在のこの政治的対立の起源は今から250年前に遡る」というような話は書かない。書かないだけならいいんですけれど、「ニューズ」だけを読んで自分のリテラシーをかたちづくってきたジャーナリストはついにはそのような歴史的事実があること自体を知らないというところまで退化してしまう。

 僕だって、同じ話を何度もしたくはないんですよ。合衆国憲法第八条十二項のことや、連邦派と州権派の話を新聞記事で繰り返し読むことができるという情報環境が日本社会に整備されているなら、僕だって安心して違う話をしますよ。でも、どの新聞読んでも、ネットニュースを読んでも、そんなことは誰も書いてくれない。

 僕が同じ話を繰り返すのは、僕に代わってその「同じ話」を広めてくれる人がほとんどいないからなんです。伝道と同じです。伝道師が僕の他にたくさんいるなら、ニッチを変えて、これまで誰もしてない話でもするか...という気にもなるんですけどね。これが少数派のつらいところです。

 というのが「内田はどうして同じ話をするのか」という読者のみなさんの疑問に対する僕からの言い訳です。これを以て「あとがき」に代えたいと思います。なにしろ、ゲラを通読して最初に思ったのが「同じ話が多いなあ...」ということだったんですから。

 

 でも、さいわいなことに、それを除くと、本書については「この辺が欠陥だなあ」というシリアスな反省は今のところありません。あと何年か経って、ここに書いたことのいくつかが「事実誤認」であることがわかったり、「予測が大外れ」であった場合には改めて反省の場を設けさせて頂きたいと思います。