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内田樹さんの「「学術」の本質とは何か?」(後篇) ☆ あさもりのりひこ No.1457

自分の経験知にも身体実感にも落とし込むことができない「未知」を抱え込んで、そして、「それが導くところまでついて行く」こと、それが学術という営みの本質だからです。

 

 

2023年12月27日の内田樹さんの論考「「学術」の本質とは何か?」(後篇)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 フロイトの『快感原則の彼岸』はおそらく20世紀で最も繰り返し引用されたテクストの一つだと思いますけれど、この中でフロイトは「強迫反復」の症例研究から「死の本能(タナトス)」という概念を引き出しました。

 ふつう人は「快を求め、不快を避ける」はずです。それが快感原則です。でも、人間は「なんら快感の見込みのない過去の経験」を繰り返し再現することがある。これは快感原則に違背します。フロイトが例示として挙げているのはこんな例です。

 

「あらゆる人間関係がつねに同一の結果に終わるような人がいる。かばって助けた者から、やがては必ず見捨てられる慈善家たちがいる。(...)どんな友人をもっても、裏切られて友情を失う男たち。誰か他人を、自分や世間に対する大きな権威にかつぎあげ、それでいて一定の期間が過ぎ去ると、この権威を自らつきくずし新しい権威に鞍替えする男たち。また、女性にたいする恋愛関係が、みな同じ経過をたどって、いつも同じ結末に終わる愛人たち。」

 

 フロイトは「つぎつぎ三回結婚し、やがてまもなく病気でたおれた夫たちを死ぬまで看病しなければならなかった」女性をその典型的な事例として挙げています。もちろん、この女性は「もうすぐ病気になって死にそうな男」たちだけに恋愛感情を抱いたわけです。

 彼らは同じような不快な経験を執拗に反復します。そこから導かれるのは反復することそれ自体が快感よりもさらに強い衝動だという仮説です。人間は「快を追求すること」よりも「同じ運命を繰り返すこと」を優先させる。この事実からフロイトは驚くべき仮説を導き出します。「快の獲得や不快の回避以上に根源的なもの」が存在する。それは原状回復の衝動である。

 

「要するに、本能とは生命ある有機体に内在する衝迫であって、以前のある状態を回復しようとするものであろう。」

 

「もし例外なしの経験として、あらゆる生物は内的な理由から死んで無機物に還るという仮定がゆるされるなら、われわれはただ、あらゆる生命の目標は死であるとしか言えない。」

 

 こうしてフロイトは「死の本能(Todestrieb)」という概念を導出しました。ただ、注意して欲しいのは、フロイトがこの仮説を提示したあとに書いていることです。フロイトはこう書きます。

 

「ここに展開した過程を、果たして確信しているかいないか、またどの程度まで信じているかと問う人があるかもしれない。私は自分でも信じてはいないし、他人にもそれを信じよと求めはしないと答えたい。もっと正確に言えば、私がどの程度それを信じているか分からないのである。(...)われわれはある思考過程に身をまかせ、それが導くところまでついて行くことはできるが、それはただ学問的な好奇心からである。」(強調は内田)

 

 ご質問は「学術の本質は何か?」というものでした。フロイトがその答えをここに示してくれているように思います。学術の本質とは、「ある思考過程に身をまかせ、それが導くところまでついて行く」ことです。それはしばしば私の経験知や身体実感とは両立しない。「資本主義の精神」も「死の本能」も、あるいはニーチェの「超人」も、マルクスの「類的存在」も事情はみな同じです。誰もそんなものを見たことがないんですから。だから、彼らの本を読んで「ああ、『超人』てあれのことね。それなら知ってるよ」と膝を打つということが決して起こらない。

 でも、そんなことはまったく問題ではないのです。自分の経験知にも身体実感にも落とし込むことができない「未知」を抱え込んで、そして、「それが導くところまでついて行く」こと、それが学術という営みの本質だからです。

 そして、まさにそのようにして人類はその知的能力を向上させ続けてきた。

 

 自然科学がそうやって「未知」の領域を「既知」に繰り込んできたことはみなさんも同意してくださると思います。その成果は実績として可視化されますから。だから、自然科学が何の役に立っているかは誰にでもわかります。

 でも、哲学が何の役に立っているかはよくわからない。わからないのも当然です。だって、哲学はこの「未知の領域を既知に繰り込む」能力そのものを開発しているからです。

 能力そのものは目に見えないし、数値的に表示することもできない。僕たちが知り得るのはその能力が生み出したアウトカムだけです。

 フロイトの言葉を借りれば、「私がどの程度それを信じているか分からない」ことについて思量できる能力、それが哲学が開発しようとしているものです。

 

 僕は武道家としては、人間の身体が潜在させている「人知を超えた能力」を引き出すための技法を研究し、開発しているわけですけれども、学術の研究者としては「人知を超えたもの」について思量できる能力を向上させようとしている。この二つがめざしていることはそれほど違うものではないように思います。