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内田樹さんの「朴東燮先生から質問が届いた」(前編) ☆ あさもりのりひこ No.1458

最も知性がその独創性を発揮できるのは、「むずかしい理説を述べているとき」ではなくて、「ややこしい話をわかりやすく説明しているとき」なんです。

 

 

2023年12月27日の内田樹さんの論考「朴東燮先生から質問が届いた」(前編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

質問「あたりまえ」、「一般人の見方」、「通念」、こういったものを、つまりある種類の 「あたりまえ」を身につけることで、我々が住んでいる社会は多くの人にとって、「なめらかなもの」になっていくと思います。

 ところで、「あたりまえ」の 言葉は、なめらかな世界に合うように、世界を区切ったりまとめたりする。その言葉を使う限り、同じ区切り方、まとめ方しかできないし、その区切り方がどうなっているのかを描くことはできないと思います。

 それで、多くの学者はなめらかな言葉では問うことのできない「あたりまえ」とその「あたりまえ」がもたらす問題点などを描きだすためにごつごつ・ざらざらした学術的な言葉を使ってしまいます。しかし、そのごつごつ・ざらざらした学術的な言葉というのは多くの人には届かない弱点があると思います。

 しかし、内田樹先生は彼らとは違って、あきらかに「手触りのやさしい」言葉を、「なめらかな言葉」のなかに切り込ませることによって、なめらかな世界の姿が形をもったものとして見えるようにするやり方をとってこられたように思います。

その「手触りのやさしい」言葉の原動力はどこにあるのか気になります。

 

 ううむ、むずかしい問いですね。自分の文体がどうして「こんなもの」になってしまったのかにお答えするわけですからね。

 朴先生が「手触りのやさしい」と形容したことを、僕は「コロキアルな」というふうに言ってきたのではないかと思います。

 colloquial というのは「日常会話の、口語の、話し言葉の」という意味の形容詞です。僕はややこしい話をするときには、できるだけコロキアルな文体の上に載せるようにしてきました。ある時期からはかなり意識的にそうしてきました。

 

 学術的な概念を学術的な用語で語るのが、世界標準的には「ふつう」です。でも、そういう「アカデミックな文体」で語られている知見は、朴先生もご指摘の通り、なかなか学術的な「業界」の外に出ることができません。一人でも多くの人に知って欲しいことが、「業界外」には伝わらないというのは、よく考えると困ったことです。

 前の質問でもお答えしましたが、僕はある時期から自分の学術的な仕事を「伝道」というふうにとらえるようになりました。偉大な先賢の知をひろく後世の人々に伝える。そのためには、道行く人の袖をとらえて「ねえ、ちょっと話聴いてくれませんか」と懇請しなければなりません。

 学術論文は「読んで理解できる人」だけを読者に想定して書けばよい。だから、予備的な考察は省略できますし、どういう文脈の中でこの研究がなされたのかをくだくだ説明するということもしないで済む。

 でも、「伝道」のための書き物はむしろ「そっち」の方がたいせつなんです。なにしろ「たぶん一読してもすぐには理解できない人」たちが想定読者なわけですから。

 どうして私がこのような伝道活動をするに至ったのか、私がこうしてその知恵を伝えようとしている賢者はいかなる人物であり、どうしてこのような知恵を得るに至ったのか、そういう「周辺情報」の充実が何よりも重要です。

 ですから、いきなり「周知のようにレヴィナスはハイデガーの存在論的圏域からの離脱を企てたわけだが」というような書き出しをすることは許されません。そんな話、ぜんぜん「周知のように」じゃないんですから。「ハイデガーって誰よ」「『存在論的圏域』ってなんのことですの」という当然の疑問に逢着した読者たちは、それについての説明がなければ、僕が握った袖を振り払って、すたすたと歩み去ってしまう。それでは困るんです。僕は「伝道者」なんですから。ですから「昔々あるところに『ユダヤ人』という人たちがいて、たいへん独創的な種族の宗教を有しておりました」くらいから話を始めないといけない。

 

 でも、僕はそういう「予備的考察」のことを「めんどうくさいなあ」と思ったことがないんです。だって、この「予備的考察」というか「文脈の説明」という仕事こそ、ある意味で最も自分の「オリジナリティー」が発揮される機会だからです。

 そうなんです。最も知性がその独創性を発揮できるのは、「むずかしい理説を述べているとき」ではなくて、「ややこしい話をわかりやすく説明しているとき」なんです。

 個性は説明において発現する。

 これは僕が人生のある時期に会得した経験知です。直接には橋本治さんという作家・思想家の書いたものを読んでいる時に気づいたことです。