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内田樹さんの「「武道的思考」について」(その2) ☆ あさもりのりひこ No.1462

武道家は勝負を争わない。強弱を競わない。一歩前に出ることもないし、一歩後ろに退くこともない。敵は私を見ないし、私も敵を見ない。そうして、天地が未だ分かれず、陰陽の別もない境位において、ただちに果たすべきことを果たす

 

 

2023年12月28日の内田樹さんの論考「「武道的思考」について」(その2)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 武道はその点が違います。武道では、術技の向上と宗教的成熟がリンクしている。術技が高まれば武道家は必ず宗教的な深みを獲得する。宗教的な研鑽を重ねれば、術技においてめざましい進歩が見られる。そういう完全な相関関係が想定されている。これはたぶん世界でも日本の武道だけに見られる「民族誌的偏り」と申し上げてよろしいかと思います(似た傾向がイスラームのスーフィズムにも見られるということをイスラーム研究者の山本直輝さんからうかがったことがあります。でも、日本とトルコだけじゃ「世界標準」にはなりません)。

 日本の武道家であればおそらく誰でも知っている澤庵禅師の言葉があります。

「蓋(けだ)し兵法者は勝負を争わず、強弱に拘(こだわ)らず、一歩を出()でず、一歩を退(しりぞ)かず、敵我を見ず、我敵を見ず、天地(てんち)未分(みぶん)陰陽(いんよう)不到(ふとう)の処(ところ)に徹して直(ただ)ちに功を得べし。」

 現代語訳すれば「武道家は勝負を争わない。強弱を競わない。一歩前に出ることもないし、一歩後ろに退くこともない。敵は私を見ないし、私も敵を見ない。そうして、天地が未だ分かれず、陰陽の別もない境位において、ただちに果たすべきことを果たす」ということになります。

 澤庵禅師は江戸時代初期の禅宗の僧侶です。柳生新陰流の宗家である柳生宗矩に武道の要諦を説いた『不動智神妙論』を与えた人です。この『太阿記』も剣客に向けて武道の神髄を説いたものです。

 澤庵自身は武道家ではありません。禅僧です。でも、禅の奥義は剣の奥義と相通じるということについては、この時代には宗教家と武道家の間に完全な合意があった。

 それは一言で言えば「我執を去る」ということをめざすということです。「勝敗を争う」「強弱を競う」「巧拙を論じる」といったことは、すべて向かい合う二人の間の相対的な優劣を比較することですけれども、日本の宗教と武道はこの「相対的な優劣を比較するマインド」をどうやって解除するか、ということを修行上の目標に掲げてきました。

 奇妙な話ですけれども、「勝とうと思うと負ける」「強くなろうとすると弱くなる」「うまくやろうとすると下手になる」という逆説は、修行者にとっては共通の了解でした。

 修行の妨げになるのは「自我」とか「主体」とか「アイデンティティー」とかいうものである。おのれを他と比較して、「勝者」であるとか「強者」であるとか「上手」であるとか見なすことは「我執」であり、それがある限り、修行の道は先に進めない。そんなものは振り捨てなければならない。

 これは前に「論破」の話をしたときに書いたので、そのことの繰り返しになりますけれど、「勝つ」というのは決してよいことではありません。勝つとそれが「成功体験」になるからです。人は成功体験に「居着く」。「成功したパターン」を繰り返そうとする。でも、それでは「連続的な自己刷新」は果たせない。勝ったことを喜ぶ人間は、そのときの自分を手離すことに強い心理的抵抗を感じるようになる。

 激しい論争をして、論敵を完膚なきまでに論破したあとになって、自分の理論に間違いがあったことに気づいたら、すごく困ったことになります。「すみませんでした。僕が間違ってました」と謝罪することは、論争での勝利が華々しければ華々しいほど困難になる。もう取返しがつきません。ですから、論争が好きな人は、「自分の理論に間違いがあったことに気づく機会」を無意識のうちに忌避するようになる。無意識のうちですから、どうしようもない。でも、自分の間違いにできるだけ早く気づいて、それをただちに補正する以外に、学術的知性が進歩するチャンスはありません。「論破する人」はそのチャンスを自分でつぶしているのです。

 武道修行は、学術における「仮説の書き換え」と構造的には同じです。連続的な自己刷新です。昨日までの自分とは違う自分になる、昨日までとは違う心と体の使い方をする、それが修行です。

 でも、試合に勝ったり、人より強くなるということが気になると、その自己刷新が困難になる。だから、「一歩を出でず、一歩を退かず、敵我を見ず、我敵を見ず」という境地に至る必要がある。相対的な優劣を意に介さない。そして「天地未分陰陽不到の処」に立つ。言葉は難しいですけれども、「未だ記号的に分節されていない世界、未だなんらかの価値のシステムによって秩序づけられていない、アモルファスな、星雲状態の境位」に立つということです。そこで果たすべきことを果たす。

「直ちに功を得べし」の「功を得る」は「みごとな成果をあげる」ということですけれど、重要なのは「直ちに」という副詞の方です。「直ちに」というのは「間髪を容れず」ということです。「何が正しいのか、どうすれば効果的か、どうすれば自分の利益になるのか」というような賢しらをすべて去って、無心に対処するという意味です。

 この「無心の境地」を武道は重く見ます。武道的状況では、ふつう相手が自分に向かって攻撃を加えてくるという設定がなされます。ぼおっとしていると殺傷されるリスクがあるので、「何か」をしなければならない。でも、そのときに「敵を見て」、その攻撃について予測を立てて、それに「最適解」を以て応じるという仕組みで対処していると間に合いません。必ず負ける。「直ちに」対処するためには、何も考えないで動かなければならない。「攻撃に適切に対処する」ではなく、「不意にあることがしたくなる」。「不意に」というのが「直ちに」ということです。無文脈的に、ということです。