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内田樹さんの「朴先生からのご質問シリーズ「内田の政治的立場は何か?」」(後篇) ☆ あさもりのりひこ No.1470

分派者というのは「僕は左翼でも右翼でもないよ」ということではありません。勘違いしないでくださいね。その逆です。「僕は同時に左翼であり、かつ右翼である」ということです。「僕は同時に天皇主義者であり、立憲デモクラシー主義者である」ということです。

 

 

2024年1月15日の内田樹さんの論考「朴先生からのご質問シリーズ「内田の政治的立場は何か?」」(後篇)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 僕は日本を代表する右翼の論客である亡き鈴木邦男さんに親しくして頂いて、対談本も二冊出しています。ここ数年ほどは『月刊日本』という右翼の雑誌にもよく寄稿しています。でも、僕を「右翼」と認定する人は日本の既成右翼にはたぶん一人もいないと思います。

 それは、僕が天皇制と立憲デモクラシーという「氷炭相容れざる」統治原理が葛藤していることが日本人が政治的成熟を遂げるためには必要な歴史的条件であると考えているからです。

 その理路は『街場の天皇論』でも詳述しました。それでも、僕と同意見の人は左翼にも右翼にもたぶん全くいないと思います。

 左翼は天皇制は「原理的に言えば、廃止すべきもの」だと考えていますし、右翼は立憲デモクラシーを「原理的に言えば、廃止すべきもの」だと考えています。僕はその両方のどちらにも与しません。僕は「原理的に考える」ことそのものに反対しているからです。

 歴史的条件として天皇制と立憲デモクラシーが与えられている以上、「与えられた歴史的環境の中で最高のパフォーマンスを達成するためには、どうすればいいか」を考える。僕はそういうプラグマティックな立場です。「天皇制と立憲デモクラシーを共生させる」というのは特殊日本的な政治課題であって、日本人に代わって「こうすればいいよ」という解を与えてくれる人は世界のどこにもいません。だったら、日本人が考えるしかない。でも、左翼も右翼も、誰もこの「特殊日本的な政治課題」について真剣に取り組む気がないらしい。だったら、僕がやるしかないか。というのが僕の考えです。

 天皇制をたいせつに思う人たちの顔も立て、立憲デモクラシーをたいせつに思う人たちの気持ちにも配慮して、なんとか落としどころを探る。

 

 別にそれほど難しい話ではないと思います。これまでアメリカ論で繰り返し書いてきましたが、アメリカという国は「自由」と「平等」という二つの対立する統治原理の葛藤の中で250年を過ごしてきました。建国のときから現在までずっとそうです。フェデラリスト(連邦政府への集権論)とアンチ・フェデラリスト(州政府への分権論)の対立から始まって、南北戦争を経由して、現在の民主・共和両党の対立に至るまで、対立の構造はいつも同じです。自由か平等か、です。

 市民的自由をいっさい制約しないという道を選べば、強者が総取りし、弱者は野垂れ死にをする無慈悲な競争社会になる。社会的格差はひたすら拡大し、社会的流動性は失われ、国力は衰微する。

 平等を選べば、公権力が市民の私有財産の一部を取り上げ、生き方にもあれこれ干渉してきます。平等達成のために同質的な生き方が強いられ、才能のある人間も、独創的な人間も、居場所がなくなり、国力は衰微する。

 だから、どちらか一方を選ぶことはできません。「自由か平等か」という二者択一ではなく、「自由も平等も」という困難な共生の道を選ぶしかない。でも、この困難な課題を引き受けて来たせいで、アメリカはその国力を伸長させ、ついには世界一の超覇権国家になることができた。いまアメリカが衰運にあるのは、多くの市民がこの困難な課題を引き受けるだけの市民的成熟を放棄しつつあるからだと僕は思っています。いまアメリカが国民的に分断されているというのは、多数の人が二つの原理のどちらかにしがみつくようになったということだと思います。二つの原理のどちらをも成り立たせる方途を探ろうとする人がいなくなった。この状態が続けば、遠からずアメリカは国力が衰微して、グローバルリーダーの地位から転落するでしょう。

 

 僕は日本人は「天皇制」と「立憲デモクラシー」という二つの統治原理の葛藤を生きるべきだと考えています。ですから、「天皇制」単一原理の人から見れば、僕は(自分たちの仲間ではないから)「左翼」に見えるし、「立憲デモクラシー」単一原理の人からは(やはり自分たちの仲間ではないから)「右翼」に見えるはずです。

 僕について政治的なレッテル貼りをする人たちは、別に僕の政治的立場を説明しているわけではなく、自分たちが居着いている政治的立場が何であるかを告白しているだけです。

 僕は「右翼」と呼ばれても、「左翼」と呼ばれても、どちらでも構いません。それぞれの固定的な立場からはそう見えるんですから、仕方がありません。文句を言っても仕方がない。

 安彦さんとの対談で僕が「右翼です」と言ったのは、あれは挑発的な意図で申し上げたのです。僕は天皇制支持の立場ですし、武道で生計を立てていますし、禊祓いや滝行が大好きで、毎朝道場で神道の祝詞を唱えていますし、極右の思想家権藤成卿についての論文を書いています。ですから、左翼から見たら「完全な右翼」のはずです。

 でも、「完全な右翼」のはずなのに、マルクスを絶賛する本を書いているし、日本共産党の選挙運動を支援しているし、相互支援相互扶助共同体の再生というアナーキズムの実践をしています。そんな「右翼」は日本には一人もいません。

 僕は「右翼」とか「左翼」とかいう固定的な政治原理に「居着く」ことそのものに抵抗しているのです。それが「分派」者の意地です。

 分派者というのは「僕は左翼でも右翼でもないよ」ということではありません。勘違いしないでくださいね。その逆です。「僕は同時に左翼であり、かつ右翼である」ということです。「僕は同時に天皇主義者であり、立憲デモクラシー主義者である」ということです。複雑だし、困難な政治的課題ですけれども、僕は日本人が政治的に成熟するための道はこれしかないと思っています。

 韓国の読者にはなかなかわかりにくい話だと思いますので、また機会があれば、もう少し詳しくお話してみたいと思います。