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内田樹さんの「朴先生からのご質問シリーズ「言語の生成について」」(後篇) ☆ あさもりのりひこ No.1479

僕が「正直」というのは、他人に嘘をつかないことではなくて、自分に嘘をつかないことです。

 

 

2024年1月24日の内田樹さんの論考「朴先生からのご質問シリーズ「言語の生成について」」(後篇)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 未加工のアイディアが文字列になって出力されて、ディスプレイに表示される。それを見て「なるほど、私はこんなことを考えているのか」ということを知る。その文字列に「意味がよくわからない言葉」や「はじめて読んだ言葉」が含有されている率が高ければ高いほど、そのテクストが僕に与える愉悦は大きなものになります。それは「生成」があったことの証拠だからです。「創造」のしるしだからです。

 さあ、これからこのままアイディアを「走らせたら」、次はどんな文字列に変換されるのか。それを読みたい。「走らせ続ける」ためには、できるだけ「既知」に回収しないようにしなければなりません。

「既知の定型」という「罠」はそこらじゅうに張り巡らされています。もちろん「既知の定型」と言っても、もとはと言えば僕が自分で考えだしたものですから、「借り物」ではありません。「オリジナル」な知見なんです。でも、「既製品」なんです。

 そして、「つねづね私が言っていること」って、吸引力が強いんです。だから、出来立ての、ふらふらした、星雲状のアイディアは、簡単に「つねづね私が言っていること」の引力圏にひきずりこまれてしまう。そして、「いつもの話」の一エピソードとか、一傍証とか、そういう付随的な地位に釘付けされてしまいます。

 それをどうやって避けるか。それが生まれたばかりのアイディアを「走らせる」ためには緊急な技術的課題です。

 こんな風景を想像してください。宇宙を航行している小さな宇宙船があるとします。これが「生まれたばかりのアイディア」です。そして目の前の宇宙空間にはあちこちに「つねづね私が言っていること」という「星」があります。その近くを通ると星の強い引力にひきずられる。その力に負けると、「いつもの話」に回収されて、星の重量にちょっとだけ加算される。

 宇宙船としては、なんとかこの引力に抗して飛び続けたい。うまい具合に星の引力圏をたくみに逃れて、さらに宇宙の先へ進めたとします。もう引き止めるほど強い引力を発揮できる星がない。その時にふと振り返ると、宇宙船の「航跡」が「生まれてはじめてする話」として残されている。そして、「おお、一つ新しいアイディアがかたちになったぞ」と喜ぶことになります。

 そんなふうにして、「まっさらの、手つかずの、生まれたばかりのアイディア」をそっと走らせること、できるだけ長い距離を走らせることが、書く人間にとっての最優先課題となります。

 さて、どうやってそれを遂行するか。

 そのために一番たいせつなのは「正直」ということだと僕は思っています。

 僕が「正直」というのは、他人に嘘をつかないことではなくて、自分に嘘をつかないことです。

 僕は他人にはときどき嘘をつきます。嘘をついた方がその人のためだと思うことってありますからね。ひどい書き物を見せられて、「どうでしょうか?」と訊かれて困ることってありますよね。僕はそういうときは「いや、これは、ひどい。あんた才能ないよ。もう書くの止めた方がいいよ」なんて絶対言いません。そんなひどいことを言われたら、その人は「じゃあ、もう二度と書かない」と絶望して筆を折ってしまうかも知れないからです。それよりは「いいですね。うん、なんかこれから開花しそうな豊かな才能の気配を感じるなあ」くらいのことを言ってあげたほうがいい。そのせいでこの人が次はいいものを書く可能性は(ごくごくわずかですが)増します。彼がこのあとよき作物を創造した場合、その受益者は(理論上は)人類全体です。だったら、「いまはダメだけれど、これから開花するかもしれない才能」にはとりあえず通りすがりに「水やり」くらいのことはしてあげたっていいじゃないですか。誰も、それで損をするわけじゃないんですから。だから、他人にはときどき「嘘」をつきます。

 ただ、自分に対しては絶対に正直でなければいけません。文字列として出力してみたら「いまいち」だと思ったら容赦なく消去する。これはもう容赦なくやらなければなりません。ばさっと何千字も消すこともあります。このときに自分に甘くしてはいけません。

 

 数日前に、僕の本のゲラが届きました。あちこちの媒体に書いたものや、ブログに上げた文章などのコンピレーション本です。途中まではすらすらと読んで、ところどころ手を入れていたのですけれど、ある頁になっていきなり足が止まってしまいました。

 たしかにそこには僕が「いかにも書きそうなこと」が書いてありました。たしかにどこかでそんなことを話した記憶もある。でも、これは僕の文章じゃない。他人の文章なんです。僕はこんなふうには書かない。

 いったいどこから採って来た文章だろうと思って検索したら、講演録が元でした。僕が90分くらいの講演でした話を5つくらいに区切って、そうやって作った文章でした。だから、コンテンツはたしかに僕のものなんです。僕がつねづね主張していることが書いてある。でも、文体が違うんです。読んでいて、呼吸が合わない。こんなリズムの文章を僕は書かない。こんな単語は使わない。読んでいて気持ちが悪くなりました。

 他人の文章だったら、そんなことは起きません。「おお、オレとよく似た意見のやつがいるな」と思って、うれしくなるかも知れない。でも、自分の書いたものだと耐えられない。結局、50頁くらい消して、全部書き直しました。

 その時に、「僕が書きたいこと」ってほんとうは何なんだろうと考えました。「学びとは何か」とか「図書館の機能」とか「中間共同体としての凱風館」とか、そこに書かれていることは、僕の日頃の主張のままなんです。でも、そこに印字されていた文章は「僕が書きたいこと」じゃなかった。

 ということは、「僕が書きたいこと」とか、さきほどから「アイディア」とか言っていることって、それをどういう文体で叙するかという「スタイル」も込みだということになります。あるリズムやある音韻でないと、自分の言葉のような気がしない。だから、全部書き直した。

 なるほど、これが「正直」ということなのか。そう思いました。

 別に僕の熱心な読者だって(例えば朴先生でも)、あの文章を読んで「内田のものではない」とは感じないと思います。「なんかちょっとリズムがいつもと違うな。風邪でもひいてたのかしら」くらいの印象は持つでしょうけれど、「内田が書いていない」とまでは思わないでしょう。

 だから、「正直」っていうのは、外的な規範じゃないんです。自分で自分に対して課すものなんです。自分が正直かどうかを判定できるのは自分しかいない。

 そして、正直であることを止めたら、もう「ものを書く人間」を名乗る資格はないと思います。

 

 たぶんこの講演録の書き換えをした編集者は、これまでも「インタビューの文字起こし」とか「講演の文字起こし」とかあるいは著者の「語り下ろし」で本を作ったことがあった人だと思います。そして、これまで彼が作った「下原稿」を多くの書き手は、少し朱を入れるだけで、そのまま通した。だから、彼は内容さえきちんと合っていれば、「リズム」だとか「音韻」なんて副次的な、装飾的なことにすぎないと思っていたのでしょう。

 でも、僕にとっては、そこに文章の「命」がある。「アイディア」というのは単なる概念単体じゃなくて、それを表わすために動員される無数の言語資源込みでしか成立しないんです。

 だから、改行をするかしないか、漢字で書くかひらかなで書くか、ここで文を切るか、もう少し息をつめて続けるか。そういうのが僕にとってはものを書く上で死活的に重要なことなんです。

 もう20年くらい前のことですけれど、一度だけ「ゴーストライター」が書いた本のゲラが届いたことがあります。それまで僕の書いたものを「切り貼り」して一冊にした本でした。だから、僕の本と言えば、僕の本なのです。最初は気づかずにゲラを読んでいたのですけれど、途中で「これは僕が書いたものじゃない」とわかりました。気持ち悪くなって、それ以上読み進めることができませんでした。申し訳ないけれど、そのゲラは棄てて、同じタイトルでぜんぜん違う本をゼロから書きました。

 そういうタイプの「正直」さがどうして書く上で死活的にたいせつなことなのか、やはりまだうまく説明できません。とにかく僕にわかるのは、正直であることを止めたら、僕はたぶん何も書けなくなるだろうということです。