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内田樹さんの「福田村事件」(後編) ☆ あさもりのりひこ No.1481

ある人が、「何をしても罰されない」という環境に置かれたときに、どこまで非人間的になれるか、それは平時にはなかなかわからない。

 

 

2024年1月25日の内田樹さんの論考「福田村事件」(後編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 この物語を深みのあるものにしているのは、これが定住民と旅する遊行の民の間の分断の物語でもあるからだ。

 福田村の村人は定住民であり、村から出ず、村の内側しか知らず、そのローカルなものの見方に束縛されている。一方、行商人たちは日本中を旅する遊行の民である。彼らは「村の外」にはそれとは違う社会があることを知っている。

 そしてこの二つの集団の中間に、村に定住しきれない人たちがいる。半ば定住し、半ば旅する人である。船頭田中倉蔵(東出昌大)、朝鮮帰りの澤田智一(井浦新)、その妻静子(田中麗奈)、村長田向龍一(豊原功補)の四人がそれにあたる。彼らは全員それぞれの理由で村の共同体から「浮いて」いる。

 

 定住民が遊行する人を差別し、迫害し、排除するということは、これまでも繰り返し行われてきた。それは定住民から見て、遊行の人々が「異物」だからである。「異物」は嫌悪の対象であると同時に激しく欲望をかきたてる対象でもある。行商する人々はその「異物」性をある種の商品として売ってもいる。そういう意味では危険な仕事である。

 

 福田村の物語は、定住民の遊行の民に対する違和感がある限度を超えて、殺意に変わる一瞬を劇的クライマックスとする。その時、半定住・半遊行の四人が、「間に入って」惨劇を阻止しようとする。

 この四人がそうするのは、とりわけ正義感が強いとか、常識的であるということではない。村人が行商人に向ける殺意は潜在的に自分たちにも向かっていると感じたからである。これを看過すれば、いずれこの暴力は自分たちにも向かうかも知れない。そう感じたからである。自分たちは今のところは「浮いている」だけだけれど、いつ、どういう理由で村人から「異物」認定されて、排除されるかわからないということに気づいているからである。

 

 この四人の中でも東出昌大演じる船頭がきわだって「中間性」が高い。彼は一応村に居を構えているものの、村外れに住んでおり、村人との交わりから微妙に遠ざけられている。それは彼が川の上を仕事場とする「海民」だからである。

 海民、山人、商人、遊女、ばくち打ち、修験、勧進聖、大工、鍛冶といった職業の人たちは網野善彦によれば「無縁の人」である。この世の秩序に「まつろわぬ」人たちである。

 だから、川を住まいとする船頭と街道を住まいとする行商人は「無縁」という点では同類なのである。

 

 船頭が独特の性的魅力を放つという設定も、彼が「海民」であるという設定を知れば理解に難くない。それは彼の個人的魅力というより、船頭という職能がもたらす「ここ」と「こことは違う場所」を架橋する「ただものではない」たたずまいから発するものだ。それゆえ、女たちは「ここではない場所」を望むときに、こういうタイプの「無縁の男」に激しく惹きつけられる。

 だから(絶対に無理だとは思うけれど)、東出昌大が登場する場面のBGMに「船頭小唄」が流れていれば...と私は思った。「おれは河原の枯れすすき 同じお前も枯れすすき どうせ二人はこの世では 花の咲かない枯れすすき」という野口雨情作詞・中山晋平作曲の「船頭小唄」は福田村の近く、水郷の古謡を採譜した曲である。

 

 朝鮮帰りの澤田夫妻は、インテリであり「ここではない外の世界」を知っている。だから、服装も言葉づかいも村から「浮いて」いる。静子が情事の相手に選ぶのが船頭であるのは、彼もまた「ここ」に本当には根付くことができない「無縁の人」だからである。

 

 映画について「セックスが過剰だ」という評言が多いと聞いたけれど、これは作り手の作為だろうと思う。閉じられた村落共同体では、村人たちの関心事は「セックスだけ」ということがしばしばおこる。誰と誰が通じているということばかりに関心が集まることそのものが村の閉鎖性を表象している。

「無縁の人」「浮いている人」の側に美男美女が多く、定住民の側が造形的には醜く描かれていたのは、現実にそうであるということではない。定住民には性的魅力がなく、遊行の民は誘惑的に「見える」という幻想を投影しているのである。そして、それがまた定住民たちの遊行の民への憎悪をかき立てもする。

 

 この映画を観て、若い人は「自分はこんな状況になっても虐殺には加担しない」と思うかもしれないが、それはわからない。誰でも虐殺の加害者になり得る。60~70年代の学園紛争を経験した世代として証言するけれども、ふだんおとなしそうな学生がいきなり節度のない暴力をふるうということは「よくあった」。

 実際に、外から見ると区別もつかないようなわずかな政治綱領の違いから違う党派の学生同士が殺し合いを演じた。鉄パイプで人の頭を殴って、頭蓋骨を割るというようなことを、さしたる心理的抵抗なしにできる人がいるということを私はその時に知った。

 ある人が、「何をしても罰されない」という環境に置かれたときに、どこまで非人間的になれるか、それは平時にはなかなかわからない。だから、できるだけ「何をしても罰されない」状況を作り出さないように私は今も個人的に努力している。

 

 本作で一点、違和感を覚えたのは、虐殺の火蓋を切ったのが女性だったことである。これは意外性を狙った脚本家の工夫なのかも知れないが、いささか無理があると思った。というのは、私が知る限り、「何をしても罰されない」状況で、いきなり人を傷つけたり、必要もなく物を壊すのは、つねに男性だったからである。

 女性にももちろん暴力性はある。けれども、それは必ず「よく知っている人間」に向かう。女性の暴力は相手に対する強い感情が絡む。女性が「行きずりの人」に対して「殺すのは誰でもよかった」というタイプの殺意を向けたという殺人事件は私の記憶にはない。

 

 私たちが内蔵している潜在的な暴力性を抑制するために必要なのは「感情教育」だと私は思っている。感情が深く、豊かで、複雑になれば、怒りや憎しみや屈辱感のような「負の感情」に流されて、感情を制御できなくなるということは起こらない。起こらないとまでは言えないけれども、少なくとも起こりにくくはなる。

 

 感情を豊かにするために私たちは「想像的に他人の身になってみる」ということをする。物語がそのための装置である。小説を読み、映画や演劇を観たり、落語を聞いたりすることはすべて「感情教育」に資する営みである。暴力をふるう側にも、振るわれる側にも、想像的に身を置くことで、人は暴力を制御する装置を内面化してゆく。本作もまたそのような「感情教育」のすぐれた機会となると私は思う。