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内田樹さんの「道徳教育について」 ☆ あさもりのりひこ No.1500

成長への階段に続く扉のノブは内側にしかついていない。外から扉を開けて、子どもを連れ出すことはできない。子どもたちに内側から開けてもらうしかない。そのためには、子どもたちの中に「この人の話をもっとクリアーな音声で聴きたい」という願いが兆すまで、私たちはひたすら情理を尽くして子どもたちに語りかけるしかない。

 

 

2024年3月5日の内田樹さんの論考「道徳教育について」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

道徳教育を教える先生たちの研修会に招かれた。話をする前に「梗概」を送って欲しいと言われたので、こんなことを書いた。

 

 私見を述べるなら、「道徳」というのは「人として」ものごとにどう適切に対処するかという「行動知」のことであって、教科書的な知識として理解するものではないように思う。むろん「行動知」も、多くの場合は言葉を経由して入って来る。だが、その言葉は子どもたちの頭に入るのではなく、身体に浸み込む

 どうして、ある行為は適切で、ある行為は不適切なのか、その基準を子どもは知らない。知らないから「子ども」なのである。言葉で説明してもわからない。頭ではわからないことをわからせるためには身体に浸み込ませるしかない。

 子どもにも子どもなりのこだわりがあり、良否の判断基準があり、好悪がある。それをいったん「棚上げ」にしてくれないと、他人の言葉は身体に入ってこない。子どもに「自分を開いて」もらうためには、「自己防衛システムを解除しても、君には不利益がない」と保証してあげなければならない。

 かつて一度自分を開いて、他者の言葉を身に受け入れたことがあったが、そのときに特段の苦痛や不安を覚えなかった子どもはそれ以後「自分を開く」ということにそれほどこだわりをもたなくなる。でも、そのときに「自分を開いた」せいで、なんらかの傷を負わされた子どもは、それからあと「自分を開く」ことに恐怖を感じるようになる。

「学ぶ」というのは「自分を開く」ということである。自分を開くこと、自分にまとわりついていた「臆断(ドクサ)」を古い衣を脱ぎ捨てるように惜しげなく捨てること、それが「自己刷新」ということであり、学校教育で子どもたちが学ぶべきはこれに尽くされる。

 他者の言葉に対して、防衛的に構えない機制を「無防備・無邪気(innocence)」と呼ぶ。

 私が経験的に言えることは、この世の中を住みやすいものにする上で最も大きな貢献を果たすのは、「イノセントな大人」たちだということである。長じても、子どものような柔らかさ、無垢を失わず、笑顔で周囲の人たちをなごませ、人の言葉に耳を傾け、決して敵を作らない人たち、そのような大人たちが集団が生き延び「よきもの」を生み出すためには絶対に必要である。

 だから、どうやって子どもがその「イノセンス」を失うことなく成長できるか。教育に携わる者が何よりも配慮すべきはこのことだと私は思う。

 とりあえず私たちにできるのは子どもたちに学校にいる限り「無防備になっても大丈夫だ」と確約することである。「君がどれほど脆く、傷つきやすい状態になっても、誰も君を傷つけない。だから、臆せずに自己防衛の殻を脱ぎ捨てて、自分を開いてよいのだ。」教師が子どもたちに贈ることのできる最もたいせつなメッセージはこれだろうと私は思う。

 でも、その言葉の意味は子どもにはわからない。だから、情理を尽くして語りかけるしかない。頭では理解できなくても、私たちが身を乗り出して話しかける言葉は子どもの身体には浸み込むはずだ。身体に浸み込んだら、今は理解できなくても、あるいは死ぬまで理解できなくても、その言葉は生き続ける。「理解できる言葉」と「共に生きる言葉」は違う。

 もし道徳というのが子どもの倫理的成熟をめざす教科なのだとしたら(そうであることを願うが)、教師がなすべきは子どもたちに「自分を開く」仕方を教えることである。そして、それは、恫喝によっても利益誘導によっても査定の恐怖によっても教えることはできない。

 

 成長への階段に続く扉のノブは内側にしかついていない。外から扉を開けて、子どもを連れ出すことはできない。子どもたちに内側から開けてもらうしかない。そのためには、子どもたちの中に「この人の話をもっとクリアーな音声で聴きたい」という願いが兆すまで、私たちはひたすら情理を尽くして子どもたちに語りかけるしかない。