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内田樹さんの「「パンとサーカス」解説」(前編) ☆ あさもりのりひこ No.1560

アメリカは決して中国との戦争には踏み切らない。アジア太平洋地域における軍事的影響力が一気に低下し、ハワイまで奪われかねず。その損失は計り知れないからです。

 

 

2024年8月27日の内田樹さんの論考「「パンとサーカス」解説」(前編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

みなさん、こんにちは。内田樹です。

 今「解説」を読んでいるということは、最後まで読み終わって、深いため息をついているところですね。いかがでしたか。面白かったでしょう(自分が書いたわけじゃないんですけれど)。文庫で700頁超えの大作ですけれども、途中で読むのを止められなかったと思います。

 僕は最初は単行本で読んで、今度「解説」を頼まれたのでゲラで読んで、通読するのは二回目なんですけれど、細部は忘れているところが多くて、特に「エピローグ」のところは完全に記憶から脱落していたので、どういうふうに話が終わるのかわからずにどきどきしながらゲラを読んでいました。

 とにかく痛快な話ですよね。文学作品を評価するときの形容詞として「痛快」というのが適切かどうかわかりませんけれども、戦後日本が抱え込んでいるトラウマである「アメリカの属国」という屈辱的なステイタスから身をふりほどき、国家主権の回復、「自由日本」の創建をめざして戦うテロリストたちの冒険譚なんですから、痛快でないはずがない。

「日本属国論」は政治的言説の中ではなじみ深いものですが、小説としてはかなり珍しいのではないでしょうか。

 1986年に村上龍が『愛と幻想のファシズム』という小説を発表しました。多国籍産業が世界の政治経済を支配し、日本が米国の属国としてその収奪の対象となり、失政で中小企業が次々倒産し、巷には失業者があふれ、社会不安が限界まで亢進した近未来の日本に鈴原冬二というカリスマ的なリーダーが登場して、政府部内や自衛隊内部に同志的ネットワークを形成して、やがてクーデタを起こし、米国のくびきから逃れ、米ソ(ソ連があった頃の話です)に対抗できる軍事強国になる...というスケールの大きな物語でした。惰弱になった日本人を叩き直して、日本を再建するためには「日本を一度徹底的に破滅する必要がある」という鈴原の過激なアイディア(今なら加速主義と呼ばれそうです)に大多数の日本人たちは喝采を送り、独裁者による支配を懇請するようになる...というまことに毒の強い物語でした。

 僕の(頼りない)文学史的知識に基づくなら、『パンとサーカス』は『愛と幻想のファシズム』以来40年ぶりの「日本で革命が起きる話」です(「それ、オレも書いたぞ」という方がいたらお詫びします)。

 寵児と空也とマリアが仕掛ける政治的動乱の目的は「アメリカの属国身分からの脱却」、そして「国家主権の奪還」です。『愛と幻想のファシズム』の主人公がめざすものと政治的目標はほぼ同じです。それはこの40年の間、日本人はついに一度もクーデタも、対政府のテロも起こさなかったし、対米自立を果たすこともできなかったということを意味しています。

 40年間の無為

 政治的行動の欠如という「無為」のみならず、日本が進むべき未来を構想する努力そのものを怠って来たという想像力の「無為」。

 この二種類の無為が日本を蝕んでいる。島田さんはたぶんそう思って、この小説を書いたのだろうと僕は思います。

 政治的理想が実行に移されないことについては言い訳が効きます。「革命ができるような歴史的条件が整っていなかったのだ」と言えばいい。でも、政治的想像力が発揮されなかったことについては言い訳ができません。想像をめぐらせることなら牢獄の中にいたってできるからです。でも、その「手足を縛られていてもできること」を日本人はずっと怠って来た。怠るどころか、自分に禁じて来た。

 本作にはその日本人の長期にわたる集団的な無為に対する作家の憤りが伏流しています。でも、島田さんは(リーダー・フレンドリーな人ですから)その怒りを読者にじかにぶつけたりはしません。そうではなく、物語に激しい起伏を与え、物語の流れを加速することで、憤りを物語の推力に変換した。そのジェットコースター的な速度が読者を拉致して、一気に700頁読ませてしまう。たいした力業だと思います。

 でも、これはどうしても必要なことだったと思います。というのは、「想像力を発揮する」と今言いましたけれど、ことはそれほど簡単ではないからです。空想的な物語が現実変成力を発揮できるのは、物語が圧倒的多数の大衆によってエンターテインメントとして享受される場合だけです。to the happy few というような限定付きの物語(これは『赤と黒』の末尾にスタンダールが書きつけた言葉です)は文学を豊かにすることはできますが、現実を変えることはできません。

 島田さんは現実を変える気でいます(できたら革命をしたいと思っています。たぶん)。そして、そのためには想像力の暴走が、エンターテインメントとして、深い愉悦として、広範な読者によって経験される必要があると考えている。

 この企ては成功したと僕は評価します。

 この作品に触発されて、これから多くの人々が「劇的に変化した日本」を持てる想像力を駆使して思い描いてくれることを僕は切に願っております。

 

「日本属国論」は政治的言説としては繰り返し語られてきました(白井聡さんも、僕も書いてきました)。でも、政治学者は現状の分析とそこに至る文脈については語りますが、クーデタの手順について語ることまではしません。でも、文学者にはそれが許される。そして、今の日本人にもっとも必要なのは秩序を紊乱することができるほどの想像力の暴走である。島田さんはそう考えてこの小説を書いたのだと思います。

 物語の中でも、中国諜報機関の「モグラ」であるミュートは審問の場で、日米中の関係をみごとに短い言葉でこう言い切ります。

 

「日本が集団的自衛権を行使できるようにしたからといって、アメリカは何もする気はなく、リゾート気分で日本に駐留し、その費用を日本に負担させ、さらに増額を要求するだけでしょう。(...)有事の際は日本を守ると曖昧にリップサービスをするだけで、アメリカは何一つ具体的な戦略を示してこなかった。空母も出動させ、戦闘機を飛ばしてくれるんですか?日本が爆買いしたF35を出撃させてくれるんですか?米軍がゴーサインを出さないと、高価な戦闘機も宝の持ち腐れになるだけです。もしかすると、ポンコツであることがバレるから、出撃命令は永遠に下されないかもしれない。そもそもの大前提として、アメリカは決して中国との戦争には踏み切らない。アジア太平洋地域における軍事的影響力が一気に低下し、ハワイまで奪われかねず。その損失は計り知れないからです。」(223-224頁)