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内田樹さんの「自由の森学園40周年記念講演「教育と自由」」(その7) ☆ あさもりのりひこ No.1591

せっかく汗水たらして、母語で高等教育ができて、母語で行った研究が世界レベルの質に達する体制を築こうとしてきたのに、それを日本人の政治家たち自身が進んで土台から崩そうとしている。それがどれほど国力を殺ぐ行為なのか、自殺的な行為なのか、誰も声に出して言わない。

 

 

2024年10月11日の内田樹さんの論考「自由の森学園40周年記念講演「教育と自由」」(その7)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 たぶん今の高校生の中でも、日本の大学に行ってもしょうがないと思っている人もいると思います。なんかつまらなそうだし、教員たちは疲弊して不機嫌そうだし、たしかに大学を見渡しても、まったく自由な感じがしないし。ですから、僕が今高校生で、親が金持ちだったら、親に泣きついてアメリカの大学に行かせてくれときっと言うと思いますね。アメリカでなければ、中国か韓国か。なんだかそっちの方が日本より楽しそうだから。

 そこまで高等教育のアウトソーシングが進んでいる。この状況を明治の先人が見たらどう思うでしょう。せっかく汗水たらして、母語で高等教育ができて、母語で行った研究が世界レベルの質に達する体制を築こうとしてきたのに、それを日本人の政治家たち自身が進んで土台から崩そうとしている。それがどれほど国力を殺ぐ行為なのか、自殺的な行為なのか、誰も声に出して言わない。

 フィリピンはもともとスペインの植民地でしたけれど、19世紀末の米西戦争でアメリカの植民地になりました。だから、フィリピンは、政治家もビジネスマンも大学教師もみんな英語を話します。当然高等教育は英語で行われ、論文は英語で書かれる。フィリピンに行くとみんな英語が上手なので、「フィリピンの人はいいな、元がアメリカの植民地だからみんな英語がうまくて羨ましい」とそういうことを平気で言う人がいる。でも、これは一面から言えば悲劇なんです。フィリピン人の母語はタガログ語です。母語は生活言語としては使われていますが、政治や経済や自然科学のような抽象性の高いことを語る場合には、母語では語彙が足りない。だから、英語で語るしかない。外国語でしか自己表現をすることができない。これは大きなハンディキャップです。

 人間が知的イノベーションができるのは母語によってだけです。これはぜひ覚えておいてください。脳裏にアイデアの片鱗が浮かんできて、それがうまく言えないんだけど、「なんて言ったらいいんだろう」とじたばたしているうちに、ふっとある言い方を思いつく。それを口にした瞬間に、それが前代未聞のアイディアであっても、聴いた人が「ああ、なるほど。そんな考え方があるんだ」と頷いてくれる。こういう対話は母語でしかできないんです。新しいアイディアというのはしばしば「初めて聴くけど、どこか懐かしい」という印象をもたらすものなんですが、これは母語を共有する人間同士の間でしか起きない。

 新語というのがありますね。ネオロジスム。これは母語でしか作れないんです。あまりにもカラフルな例なので、もう何度もあちこちに書きましたが、20年くらい前、野沢温泉で露天風呂に浸かっていたら、大学生らしき二人がやってきて、露天に浸かると同時に「やべ~」と言ったんです。僕はそのとき、その表現を初めて聴きました。「やばい」はもともと犯罪者の隠語で「危険だ」という意味ですが、それが日常語になり、ついに「たいへん気持ちがよい」という意味に転義したと今の国語辞典には書いてあります。興味深いのは、彼らがその言葉を使ったときに横で湯に浸かっていた僕が一瞬のうちにそのニュアンスが理解できたっていうことなんです。

 変だと思いませんか? 初めて聞いた言葉なのに。「やばい」が新たな語義を獲得したことが一瞬で分かった。それはこの新語が母語から湧き出てきたものだからです。母語話者は全員母語のアーカイブを共有している。この母語のアーカイブにはかつて日本列島で口にされ、文字に書かれたあらゆる語が、あらゆる表現、あらゆる音韻が蓄積している。もちろん、僕たちはそのアーカイブに含まれる語や表現や音韻のうちほんの一部しか今は使っていません。奈良時代の日本人が話していた言葉のほとんどはもう僕たちの語彙にはない。にもかかわらず、母語のアーカイブから湧出してきたものだから、それが初めて聴く語でも意味が分かる。

「真逆」という語も初めて聴いた時にニュアンスが分かった。「正反対よりちょっと強め」ですね。でも、「真逆」って読み方って変じゃないですか。これ「湯桶読み」でしょう。なぜ「ま・さかさま」にも「しん・ぎゃく」にもならずに「真逆」を「まぎゃく」と読んだのか。もしかしたら最初は「真逆様」という文字列を国語のあまりできない生徒が「まっさかさま」じゃなくて「まぎゃく・さま」と読んで教室で大受けしたとか、そういう前史があるのかも知れませんが、とにかくよくできた新語でした。

 初めて聴いた語なのに意味が分かる。それがネオロジスムが成立する条件なんですけれど、この条件をクリア―できるのは母語においてだけなんです。これは外国語ではできないんです。絶対無理です。go went goneという変化を覚えるのが面倒だから、これからは go goed goed にしませんかと提案しても、英語話者は受け入れてくれない。僕が間違えて I goed to the station と言っても、もちろん英語話者は僕が何を言いたいのかはわかるはずです。でも、それを「新語」として認めて英語の新しい語彙に入れてはくれない。それはただの「間違い」です。新語を作り権利があるのは、ネイティブ・スピーカーだけなんです。母語話者じゃない外国人がどんな間違いをしても、それは英語の辞書には登録されない。

 だから、母語がリンガ・フランカである話者たちというのは、圧倒的なアドバンテージを持つことになる。次々と母語のアーカイブからネオロジスムを汲み出すことができるんですから。自然科学であっても社会科学であっても人文科学であっても、新しいアイデアというのは、さっき言ったように、最初にまずアイデアの尻尾だけが見える。まだそれをうまく言い表す言葉がない状態で脳裏に浮かぶんです。その尻尾からたぐり寄せていって、それにふさわしいネオロジスムを作り出す。どんな斬新なアイディアでも、母語話者同士なら、それが何を意味するのか、なんとなく分かる。そのできたばかりのアイディアが専門家集団の間で共有されて、そこに新しい学術的パラダイムが成立する。

 これが「母語の生産性」ということなんです。だから、高等教育機関は母語でやらなきゃいけないということを僕は申し上げているんです。もし日本の高等教育機関が全部英語ベースになったら、ふと思いついたアイディアの尻尾を言葉にするためには、それにふさわしい「辞書に載っている語」を探し出さないといけない。でも、「辞書に載っている語」の数は母語のアーカイブに蓄積している語の何百万分の一、何億分の一なんですよ。母語から汲み出せば、もう何百年も使われていない語が「ぴったり」だったということはあり得るんです。でも、英語でそれを語れと言われたら、「今辞書に載っている語」の中から探し出さなければいけない。子どもの頃から英語圏で育って純粋な日英バイリンガルという人だったら、日本語、英語の両方を母語のアーカイブとして利用して、日本語の古典も英語の古典も縦横に引用できるかも知れませんけれど、そんな人はほとんど存在しません。

 母語で高等教育を行わなければならないということの意味がそれでお分かりになると思います。帝国主義国家がすべての植民地で、学校教育を必ず宗主国の言語で行わせるのはそのためなんです。植民地では絶対に知的なイノベーションが起きないようにしている。植民地の現地語で高等教育まで行えるようなシステムをうっかり許してしまったら、原住民の秀才の中から、宗主国民を知的に凌駕する人物が出てくる可能性がある。宗主国と植民地の権力関係を固定しておくためには、高等教育を母語で行わせないということは必須の政策なんです。