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内田樹さんの「自由の森学園40周年記念講演「教育と自由」」(その9) ☆ あさもりのりひこ No.1594

今も太陽光パネルをあちこちで敷設しています。想像してほしいんです。日本の平地という平地、山という山が太陽光パネルで埋め尽くされている風景を。

 

 

2024年10月11日の内田樹さんの論考「自由の森学園40周年記念講演「教育と自由」」(その9)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 ビジネスマンは「教育」ということの意味がわかっていなかった。だから、どうして「最低の学習努力で学士号が手に入る」合理的な大学に志願者がさっぱり集まらないのか、最後までわからなかった。でも、この株式会社立大学の歴史的失敗のことを、今は誰も語りません。そして、ほとぼりが冷めた最近になって、またぞろ「産業界の要請」という大義名分を掲げて、「実務経験者を大学教員に採用するように」とうるさく言ってきています。今度は「スーパー」じゃなくて「ファクトリー」のイメージでの大学改革をめざしているようです。

 指示された材料を調えて、きちんと工程管理をすれば、納期までに仕様書通りの「製品」が予定個数だけ完成する。そういうファクトリー・モデルで大学を再編しようとしています。学生の扱いは前よりも一段落ちています。前は曲がりなりにも「消費者」という「ヒト」だったのに、今は「製品」という「モノ」にまで格下げされた。

 でも、そんなことをしていいはずがない。人間は缶詰や自動車のように仕様書通りに製造できるものじゃありません。そもそも「工程管理」なんかできるはずがない。教える側だって、いったいこんなこと教えてどんなアウトカムが出てくるのか、見当もつかないままやっているんです。なんとなく学生の「食いつき」がいい話をしていると、学生たちの中で何かが起動するのがわかります。「学び」が発動している。「学び」が発動したら、あとは自学自習です。好きにやってもらう。教えて欲しいことがあると言って来たら教える。読みたい本があると言われたら本を与える。会いたい人がいると言ったら手を尽くして紹介する。教師がするのはそれくらいです。

 学生たちは自分で自分を成長させるんです。ベルトコンベアーに乗っているうちに味がよくなる缶詰とか、自力で性能を向上させる自動車なんてものは存在しません。でも、僕たちが教育活動で相手にしているのは、そういう「なまもの」としての人間なんです。

 そりゃ、たしかに大学の教師は世間のことを知りません。金儲けにも疎い。でも、教育がどういうものであるかは知っている。とりあえず明治の始めから150年にかかって創り上げてきた教育制度が今土台から崩されようとしていることに対してはつよい危機感を持っている。今ならまだなんとか立ち直らせることができるかも知れない。でも日本国民の大半は、今教育が危機的な状態にあることを理解していない。日本国民の大半が理解していない。今、何が起きているか理解していない。 

 

 僕は今日こういうところで講演するために神戸から飯能まで来ました。僕だって結構つらいんですよ。疲れてるんです。でも、人の前で話す機会があったらとにかく話そうと思ってきてるんですよね。伝道師ですからね。

 危機的とはいえ、日本には豊かな資源があります。まだ12500万人の人口はあるし、エスタブリッシュメントにはあまりろくなのがいませんけれども、裾野には賢い人がまだいっぱい残っている。だからまだ復元力はあると思う。でも、この復元力を早く発揮していかないと、先にゆけばゆくほど日本の崩壊を防ぐことが難しくなってくる。

 一番緊急なのは、首都圏に人が集まって、それ以外のところが過疎化、さらには無住地化する。本当にそうなんですよ。僕の友達で想田和弘さんという映画監督がいます。彼は岡山県の牛窓っていうところにいて、映画を撮っているのですけど、2年ほど前に牛窓の彼のところに遊びに行ったことがあります。そのときに牛窓の山の上に連れて行ってもらいました。すばらしい景色でした。南と東と西に瀬戸内海が広がっていて、絶景なんです。その時に想田さんに「北を見て」って言われて振り返ったら、北側はちょうど湾の形に真っ黒なものが広がっているんです。「あれ、何?」って聞いたら「太陽光パネル」だと教えてもらいました。

 そこはもともとは錦海湾という湾なんですよね。水深の浅い湾で、そこで魚が産卵する。瀬戸内海の魚の豊かさの宝庫みたいなところだったんです。そこを干拓して、1970年代には干拓地でビジネスやろうという話になって塩田にしたんです。でもすぐに立ち行かなくなって、製塩は廃業した。あとは使い道がないんです。土は塩を含んでいますから農業ができない。仕方がないので、製塩工場や産業廃棄物の廃棄場になった。そして数年前に太陽光パネルを敷き詰めて、「日本最大のメガソーラー」というものになった。湾の形が真っ黒に塗りつぶされている。

 僕は、かつてあれほど醜悪な自然破壊を見たことがありません。本当に醜いのです。あれと同じことがこれから日本中で起こると思うと気持ちが暗くなります。今も太陽光パネルをあちこちで敷設しています。想像してほしいんです。日本の平地という平地、山という山が太陽光パネルで埋め尽くされている風景を。海岸には風力発電の風車が林立していて、原発があって、産業廃棄物の廃棄場がある。「使い道のない土地がある」という口実さえあれば、過疎地・無住地にはそういう広漠たる光景が広がる。それが何十年間あとのディストピアの光景です。それをリアルに想像してほしいんです。

 ディストピアを語る理由は、ディストピアのありさまをこと細かに語るとディストピアの到来を阻止できる可能性があるからです。これは人類のある種の知恵なんだと思う。「ディストピアもの」が書かれ出したのは20世紀に入ってからです。オルダス・ハクスリーの『すばらしき新世界』とジョージ・オーウェルの『1984』がたぶん最初です。でも、ディストピアSFが大量生産されたのは1950年代、60年代のアメリカなんです。その頃に大量生産されたのは、米ソの間で核戦争が起きて、世界が滅びるという話です。わずかなヒューマンエラーによって核戦争が始まり、文明が消滅する。そういう話です。映画であれ、テレビドラマであれ、漫画であれ、小説であれ、膨大な数のディストピアムが書かれた。僕はその頃SF少年だったので大量のSFを読みました。『博士の異常の愛情』とか『猿の惑星』とか世界が核戦争で滅びる映画はたくさん作られました。

 でも、あれだけ大量の「核戦争で世界が滅びる物語」が作られ、流通しながら、戦後79年経って、まだ核戦争が起きていないんですね。世界中に核兵器保有国がある。米国もロシアも中国もフランスもイギリスもイスラエルもインドもパキスタンも北朝鮮も持っている。たぶんイランも持っている。地球を何十回も破壊できるだけの核兵器を人類は何十年も保有し続けている。でもまだ誰も核兵器のボタンを押していない。どこかで阻止されているわけですよね。心理的な壁があって、これを押すと人類が終わるということがわかるから、押すことができない。人類が終わるとわかるのは、子どもの頃から核戦争で人類が滅びる物語を飽きるほど浴びてきたからですね。人類の愚かさで世界が滅びるそのディストピアの風景というのがあまりリアルなので、さすがに最後のボタンを押すことができない。

 僕はそうだと思います。だから、ディストピアを語ることには意義がある。到来するかも知れないディストピアについてはできるだけ詳細に語る。どういうヒューマンエラーが世界が滅びるきっかけになるのか、それをありとあらゆる場合についてシミュレーションしてみる。次から次と「フェイルセーフ」が破綻して、最悪の事態に向かって、まっすぐに破滅してゆく。そういう話をほんとうに多くの作家たちやシナリオライターたちが考え抜いた。

 もちろんそれは杞憂であり、妄想なんです。でも、妄想を暴走させることが時には必要なんだと僕は思います。どんな妄想でも、微細にわたって記述されれば、そのような妄想的な未来が到来することを防ぐ効果はある。これは、僕がSFから学んだことなんですね。

 世界の終わりについてのディストピアの物語がディストピアの到来を防ぐことができるためには条件が要ります。それは大量生産、大量流通、大量消費ということです。限られた少数の人たちだけの間で語り継がれてもダメなんです。エンターテインメントとして、世界中の人が、ディストピアの物語を「享受する」のでなければ、ディストピアの物語がディストピアの到来を防ぐことはできない。

 だから、僕はこうやってみなさんの前に立って、こんな変な話をしているんです。それはみなさんにうちに帰ってしゃべってほしいんですよ。「今日、内田ってやつが講演に来て、変な話ししててね。このまま行くと東京に人口が一極集中して、あとの土地は無住地になるって言うんだよ。変な話でしょ。で、人が住まなくなったところには太陽光パネルや風車や原発だけがあって、その辺をサルやイノシシやクマが走り回っていて、幹線道路から一歩降りたりすると野獣に襲われるなんて・・・変な妄想を語っていたよ」って話して欲しいんです。そのディストピアの光景についての「変な話」を広げてほしいんです。家で話して、学校で話して、職場で話して...、そのうちに、たくさんの人が日本列島の最悪の未来について具体的なイメージを持ってくれたらいい、そう思って僕はしゃべっているんです。これは「核戦争で世界が滅びる話」と同じなんです。人類は79年間そういう話をし続けてきた。そして、今のところまだ核戦争は起きていない。日本列島が荒れ果てた無住地になる話をしている限り、そんな未来の到来は防げる。

 逆に言えば、誰もそんな未来を想像しなければ、そんな未来があっさり到来するかも知れない。そういうものなんです。想像力の現実変成力を侮ってはいけません。「こんなことが起きるんじゃないか?」って想像すると、それが「図星」を当てられた人間はさすがにちょっと立ち止まるんです。過疎地を無住地にして、そこに太陽光パネルとか風車とか原発とか産廃廃棄場を作る気でしょうと言い当てられると、さすがにいきなり「そういうこと」はしにくくなる。別に罪の意識に駆られてということじゃなくて、「頭の中味を言い当てられる」と人間は立ち止まるんです。さすがに恥ずかしくて。自分の頭の中って、そんなに外に「筒抜け」になるほどシンプルなのかと思うと、さすがに恥ずかしいから。だから、「違う」と言う。「そんなこと考えてない」と言い出す。とりあえずはそれでいいんです。「あなた、これからこういうふうにしようとしているでしょう」と言われると、「そんなこと考えてない」と必ず反射的に答える。人間はそういうものなんです。だから、とりあえず、それで立ち止まらせることができる。もちろんわずかの間のことです。でも、その次に考えそうなことについても、先回りして、「こんなことを次は考えているでしょう」と言い当てられると、やはりそこでもしばらくは立ち止まる。そうやって、次の悪知恵をひねり出すまでの間、最悪の事態の到来を一コマずつ先送りすることはできる。

 僕がこうやって一生懸命語っているのはそのためなんです。ストーリーを共有したいんです、皆さんと。皆さんもとにかくディストピアを細部まで書き込んでひとりひとりのディストピア物語をつくってほしい。