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人口減は止められません。ですから、僕たちに課せられている問いは人口減が「急激なもの」ではなく、「穏やかなもの」にするために政治的に何ができるか、です。
2024年11月4日の内田樹さんの論考「『無知の楽しさ』についての質問票」(その2)をご紹介する。
どおぞ。
内田先生はレヴィナスの「弟子」であることを強調されているように感じました。私も学部時代に「哲学」を専門にしていたので、レヴィナスについてはちょっとだけ勉強したことがありますが、そのときに自分中心の思考から他者中心の思考に切り替えなくてはいけないというようなことを学んだような気がします。現代の韓国を生きている人たちにとって学ばないといけないレヴィナスの思想とかありましたらご教示いただけないでしょうか。
レヴィナスの思想は約めて言えば「他人に優しくしましょう」「自分を固定化しないでどんどん別人になる方がいいです」という穏やかな人生訓になると思います(ほんとに)。でも、この教えを「万人に妥当する、人としてのまことの道」であると断言できるようになるために、レヴィナスがどれほど深い哲学的探究を行ってきたのか、その道程を知ると気が遠くなりそうです。僕がレヴィナスを「生涯の師」だと確信したのは、この穏やかな人生訓を哲学的に基礎づけることがどれほど困難な事業か、僕にも何となくわかったからです。
ここからはもう少し本格的に私が本当にお聞きしたいことを伺おうかと思います。心の奥底から湧き出た質問とでもいいましょうか。
最近、韓国は世界で最も子どもが生まれない国になってしましました。いわゆる深刻な少子化とともに超高齢化が進んでいるということですね。既に地方では消滅するところが出始め、そのうち韓国という国が消滅するのではないかと心配する声も多くあがっています。日本は韓国よりも先によく似た道を辿っていると思いますが、最近では韓国の合計出生率が日本の半分程度に過ぎず、まさに韓国が世界でこの問題と関連して最も深刻な国になっています。このような現象について、なんかアドバイスをいただけないでしょうか。
地球の「環境収容能力(Carrying capacity)」 を考えると、80億というのはあきらかに人口過剰です。すでに世界の9人に一人は飢餓状態にいます。もう地球環境は人類のこれ以上の増殖には耐えられない。ですから人口減は合理的な解なんです(19世紀末の世界人口は14億。今の中国は当時の世界人口を統治しているのです)。
若い人はご存じないと思いますけれど、1970年代まで「人口問題」というのは「人口爆発問題」でした。地球の資源が枯渇して人類が滅亡する危険について多くの学者が警鐘を鳴らしていました。それがころりと反転して、人口が減り過ぎていくつかの国民国家がなくなりそうだという話になったのはごく最近の話なんです。
災害のスケールとしては人口爆発より人口減少の方が「まだまし」だと僕は思っています。
ただ、人口減少にも「急激な」と「穏やかな」という程度の差があります。「急激な人口減」は場合によっては破局的な事態をもたらします。「穏やかな人口減」はうまくすると、高度な文明と豊かな資源を少数の人々が享受するという幸福な状態を創り出すことができるかも知れません。
人口減は止められません。ですから、僕たちに課せられている問いは人口減が「急激なもの」ではなく、「穏やかなもの」にするために政治的に何ができるか、です。
これは徹底的に政治的な問いですい。経済的な問いではありません。資本主義は仮に人口減局面であっても経済成長を求めます(そういうシステムですから)。
人口減局面でさらに経済成長するためには、資本主義は、人為的に「人口過密地」と「人口過疎地・無住地」を創り出し、過密地ではこれまで通りの活発な経済活動を営み、過疎地・無住地では「生産性の高い産業」を行うという解を提示してくるはずです。「生産性の高い産業」とは株式会社経営による大規模農業、原発、ソーラーパネル発電、風力発電、産業廃棄物廃棄場...などが考えられます。どれも生態系にシリアスな悪影響を及ぼします。でも、もうその土地には「地域住民」というものが存在しないので、反対運動がありません。その後人間がそこで暮らす可能性がないということになれば、生態系の維持コストを企業も政府も負担はしないでしょう。結果的に国土の大半は以後「居住不能」になります。
人口減局面で経済成長をめざせば、資本の論理が求めるのは「都市部への人口集中」と「地方の無住地化」です。これは間違いありません。韓国で起きているのはそのような事態です。
繰り返しますが、これは資本主義経済の要請なんです。「そんなことを続けていたら、いずれ韓国そのものがなくなってしまって、韓国の資本主義も同時に消滅してしまうじゃないか」と驚かれる方もいるか知れませんが、そうなんです。資本主義は生き物ではなくてただのシステムですので「生存戦略」というものはありません。「韓国が滅びたら韓国の資本主義の立場がないじゃないか」と問い詰めても、資本主義には「立場」というものもないのです。ただの構造ですから。
だから、「市場のニーズ」に丸投げして人口減少問題を放置しておけば、さらに「急激な人口減」が続きます。これを阻止するためには「穏やかな人口減」のためのシナリオを僕たち自身が直ちに提示してゆく必要があります。僕たちに代わってこのシナリオを考えてくれるような政治家やビジネスマンや学者はいません。そして、「正解を考えてくれる人」の登場をぼんやり指をくわえて待っているほどの時間の余裕はもうないと思います。自分で考え始めるしかない。僕はそう思います。
私は『インスタグラムには絶望がない』という本を出したことがあります。
そのあと「SNS」というカルチャーについて批判的な観点を取り続けています。最近はSNSが行き過ぎた自分を誇示する場となり、人々が互いに比較しあって、相対的剥奪感を煽ったり、理想と現実の隔たりからひどい抑うつ感と無気力を感じたりするなど、さまざまな問題が起きていると思います。
内田先生は最近の「SNS」というカルチャーについてどう考えていらっしゃるのかお聞かせてください。
SNSはすべての人が(理屈の上では)全世界に向けて、メッセージを発信できるという点では人類の生み出したすばらしい発明だと思います。それがいくつか有害な結果をもたらすとしたら、それはシステムそのものではなく、その「運用」に問題があるからです。システムを廃絶することはもうできません。それをどう「賢く」用いるか、それに知恵を傾ける方がいい。
あらゆるテクノロジーはそれがもたらすベネフィットとそれがもたらすリスクを計量して、存否を判断すべきだと僕は考えています。SNSはリスクよりベネフィットの方が多いテクノロジーです。ですから、リスクを軽減する具体的な手立てを考えるのが合理的だと思います。
SNS以外でも原理的に言えば似たようなことは起きます。僕が中高生だった頃はSF雑誌や音楽雑誌の投稿欄に「行き過ぎた自分を誇示する」子どもたち同士が相対的な知識や審美眼の優劣を競い、心理的な傷を与えたり負ったりするということがありました。メディアも知らない子どもたちの世界の出来事でしたから社会問題にはなりませんでしたけれども、人間は「自分を実物以上に装飾的に誇示できる機会」があればつい利用したくなる、そういう度し難い生き物であるということを僕は中学生の時に学びました。
今でも僕はSNSのみならず、執筆活動全般を通じて、「自己を過剰に装飾的に誇示する」ということと「よく知らない人と知識やテイストについて相対的優劣を競う」ということはしないようにしています。「どうしてですか?」と訊かれそうですけれど、他人が自分のことをどう思うかには、あまり興味がないのです。若い頃には少しは他人からの評価にも興味があったのですが、武道修行を始めて「他人との相対的な優劣を競う心は修行の妨げになる」ということが身にしみてからは、そういうこともぱたりとなくなりました。