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ここでいう「成長」は富や名声や権力の量的増大を意味しません。そういうものが「価値があるように思えなくなる」という本人のものの見方の変化のことです。我執を去るほど生きやすくなる。
2024年11月4日の内田樹さんの論考「『無知の楽しさ』についての質問票」(その3)をご紹介する。
どおぞ。
内田先生の文章を読むと、わたしの心がほんとうに自由になるような感じがします。
そのおかげで、わたしも何かに縛られない質問をすることになりました。
一方では昨今、時代が行き過ぎた「主観主義」時代だと言われたりもします。
みんながそれぞれ、自分だけが正しいと思いこみ、「客観的な正しさ」を目指すことやそういったような正しさの基準は消えていっているということでしょう。過去に客観の暴力が問題だったとすれば、今はむしろ行き過ぎた「主観主義」が問題であると言えるかもしれません。
内田先生はこの現象についてどう思われますか。
ポストモダンという思想潮流がありました。1980年代くらいから欧米ではやり出したものです。「客観的実在などというものは存在しない。すべて主観である」というわりと過激な哲学でした。「自分が見ている世界だけが客観的現実で、私以外のものが見ている世界は幻想だ」という「自己中心主義(égocentrisme)」に対する批判としては、すぐれたものだと思いました。自分が経験していることの客観性について過大な評価を与えないという知的抑制は悪いものではありません。
それが「私の眼には世界はこう見える。あなたには世界が別のように見える。ではいったい『ほんとうの世界』はどんな感じなんだろう」という対話的な活動のきっかけになるのであれば。
でも、ご存じの通り、そうなりませんでした。
ポストモダンは「客観的実在などというものは存在しない。誰もが自分が主観的に構築した世界を見ているのだ。だったら、自分にとって一番居心地のよい世界に安住して、そこで満足していて何が悪い」という居直りにまで劣化してしまいました。それが今日「オルタナティブ・ファクツ(alternative facts)」「アイデンティティー・ポリティクス(identity politics)」と呼ばれる思想潮流をかたちづくることになった、というのが僕の理解です。
「オルタナティブ・ファクツ」は「見る人によって世界は別に見えるが、どれも等しく事実である」というある種の知的虚無主義です。「アイデンティティー・ポリティクス」は「ことの理非はさておき、どんな場合でも、自分が帰属するアイデンティティー集団の採用している世界の見え方を採用しろ」というこれも別の種類の知的虚無主義です。
「私だけが客観的現実を見ている。おまえたちが見ているのは幻想だ」というのは「ろくでもない考え方」ですが、「全員が幻想を見ており、それは非客観的である点において等格である」というのも同じく「ろくでもない考え方」です。問題は「どちらのろくでもなさがよりろくでもないか」の程度差をきちんと見きわめることです。人が見ているもののうちには「かなり正確に現実をとらえているもの」と「まったくの妄想」があります。そこには無視しがたい「程度の差」があります。
ガリレオの時代の「地動説」は今日の科学から見るとかなり不正確な理説ですけれども、同時代の「天動説」に比べると、「仮説がシンプルであり、かつ説明できる現象が圧倒的に多い」ものでした。だとすれば、この場合にはガリレオの「地動説」を以て「暫定的真理」とみなして、これを足場にさらに汎用性の高い学説を探求するというのが知的には生産的な態度です。
ガリレオの説もキリスト教会の説も、どちらも「絶対的真理」ではないという点では「五十歩百歩」だから、どちらも採用しないということになっていたら、人類の科学の進歩はその時点で終わったいたでしょう。
絶対的真理にはいきなり手を届かせることは誰にもできません。それよりは「程度の差」をていねいに吟味すること。知性の活動の本質はここにあると思います。
『無知の楽しさ』で特に印象深かったのは「武道的思考」でした。互いに競争と比較ばかりするのは資本主義社会の特性であり、同時に東アジアの集団主義が変質した特性ではないかと思ったりもしています。そうした中で、自己流に生きる人生は「武道的思考」と関連が深いようですね。この「武道的思考」による生き方について簡単に紹介していただくとともに、これにしたがった生き方を現代社会で実現するときに、遭遇する「たいへんさ」を克服する方法も教えていただけるとありがたいです。
ここまでご質問へのお答えとして書いたことはどれも「武道的思考」に基づくものだと言ってよいと思います。
目標を「無限消失点」に置くこと、他人との相対的な優劣を競わないこと。
武道では「相対的優劣を競って勝つこと」を最も嫌います(「敗けること」ではありません)。成功は「成功体験に居着く」というリスクをもたらすからです。成功体験は人をそこに「釘付け」にします。それは成長も変化も止まるということです。
でも、ひとたび成功した人にとって「成功体験を捨てる」ことはたいへんに困難です。現にそれが富や名声や権力をもたらしている場合には一層困難です。でも、東アジア文化圏ではそれを「捨てろ」と教えています。道義的な理由というよりは、「成功体験に居着くとその後の成長が難しくなる」という実利的な理由によります。
もちろん、ここでいう「成長」は富や名声や権力の量的増大を意味しません。そういうものが「価値があるように思えなくなる」という本人のものの見方の変化のことです。我執を去るほど生きやすくなる。簡単と言えば簡単な話です。
私は先生が今回の本でスティーブ・ジョブスに言及されながら、自分の内面に従う「勇気」を強調されている部分が印象的でした。私も私の内面の声を聞き、生きようとする勇気について、よく考えたりします。時には勇気が先走って「蛮勇」になる場合もあると思います。例えば賭博をする勇気は時には自制しなければならないかもしれません。冒険する勇気と、自制しなければならない蛮勇のあいだのバランスが取れる方法があるのでしょうか。
勇気というのは「少数派であることに耐える」ことのできる心の強さと、自分には「理がある」という叡智的な確信と、二つを必要とします。それをかたちづくり、保持するためには長く集中的な努力が必要だと思います。
とりわけ「心の強さ」は生得的な条件がかかわってきますから、若い人たちに向かって、誰かれ構わずに「勇気を持って生きろ」と説くことには、僕もいささかの抵抗を感じます。しかたなく、「勇気を持って生きることができる人は勇気を持って生きて欲しい」という同語反復みたいなことを語ることになります。
「冒険する勇気と自制しなければならない蛮勇の違い」はどこにあるかというご質問ですけれど、その程度の差を判定するのが知性の仕事です。自分の判断には「理がある」かどうかを吟味するのは徹底的に叡智的な営みですから。知性が明晰であれば「判断に迷う」ということはありません。