〒634-0804

奈良県橿原市内膳町1-1-19

セレーノビル2階

なら法律事務所

 

近鉄 大和八木駅 から

徒歩

 

☎ 0744-20-2335

 

業務時間

【平日】8:50~19:00

土曜9:00~12:00

 

内田樹さんの「『無知の楽しさ』についての質問票」(その4) ☆ あさもりのりひこ No.1608

学ぶというのは「知識や情報の量が増える」ということではなく、それまで使っていた「知識や情報の処理のシステムを変える」ということです。「頭がよくなる」というよりはむしろ「頭が大きくなる」「頭が丈夫になる」という方が実感に近い表現になると思います。

 

 

2024年11月4日の内田樹さんの論考「『無知の楽しさ』についての質問票」(その4)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 内田先生の「学びとは別人になること」という言葉がたいへん印象深かったです。最近私は幼い子どもを育てていますが、ことばや歌のようなものを学びながら、毎年、子どもは別の存在になっていくのだと感じたりします。

 一方、大人になってから何かを真摯に学び「別の存在」になるということは、難しいことだと思います。私たちが本当に何かを学び、変化しようとするとき、ある種のコツのようなものがあるのでしょうか。韓国では最近、作家たちの本の内容を写経するのが流行っているのですが、このような行為も役にたつでしょうか 。 

 

「学び」というのは、別人になることです。それまでの知性的な、あるいは感情的なフレームワークに収まりきらないものを受け容れるということですから、手持ちのフレームワークはたわんだり、ひびが入ったりすることもありますが、ふつうは「かたちを変えて、サイズを大きくする」ということで対処します。

 学ぶというのは「知識や情報の量が増える」ということではなく、それまで使っていた「知識や情報の処理のシステムを変える」ということです。「頭がよくなる」というよりはむしろ「頭が大きくなる」「頭が丈夫になる」という方が実感に近い表現になると思います。

 写経は他人の言語を自分の言語枠組みの中に無理やり押し込むことです。それを受け容れる語彙や観念が手持ちの言語資源のなかになかったら、手作りするしかありません。間違いなく「頭が大きく」なると思います。

 僕はレヴィナスの哲学書を最初に翻訳したときに、そこに何が書いてあるのか、ほとんど理解できませんでした。しかたなくフランス語を日本語に置き換えてゆきました。ほとんど「写経」です。でも、そういう作業を20年くらい続けて、数千頁も訳しているうちに、さすがに「レヴィナス語辞典」のようなものが僕の頭の中にもできます。もともと僕の中に存在しなかった語彙や観念が「辞典」の日本語訳として登録される。それはレヴィナスのフランス語を日本語に置き換えるために僕が手作りしたものです。レヴィナスが蒔いた種子が僕の中で発芽したものです。きっかけは他者から到来したものですけれども、素材を提供したのは僕自身です。「学び」を通じて別人になるというのはそういう経験だと思います。

 

 最近、韓国はすべての問題や悩みをお金で解決できると言わんばかりに、お金中心社会になってしまったようです。お金が自尊感情を決定づけ、お金で序列を決めて、お金だけで幸福と人生の価値が決まるとみんなが信じている雰囲気が蔓延しています。みんながお金の心配、お金に対する不安、財テクを手放すと、自分だけが「相対的乞食」になってしまうかもしれないという恐れの中で生きています。

 ですから、仕事、愛、人との関係等、すべてのものが損得勘定になっています。お金というのは生存と直結した問題であるだけに、人間がこのような問題から抜け出すのはたやすいことではないと思います。このような世の中で本当によい人生・生き方とは何なのか、どう生きればよいのかについての内田先生のご意見をうかがいたいと思います。

 

 お金について一つだけ確かなことは「お金持ち」の定義です。それは「お金のことを考えないで済む人」のことです。

 僕たちはふだん「胃袋」の事を考えません。胃袋が健全に機能して、ぱくぱくご飯を消化しているときには「胃袋はどんな状態であろうか。ちゃんと胃液を分泌しているだろうか」というような懸念は脳裏に浮かびません。

 お金も同じです。朝から晩までお金の心配をしている人が「お金のない人」で、それをしないで済むのが「お金がある人」です。そして、これは所持している金額の多寡とは関係ないんです。

 お金の心配をしないで済む一番簡単な方法は「収入以下の支出で暮らすこと」です。僕は大学を出たあと、長いこと定職に就かずふらふら暮らしていました。翻訳や家庭教師のアルバイトで食いつないでいましたが、お金の心配をしたことがありませんでした。月収が10万円なら、9万円くらいで暮らす。そうすれば1万円貯金もできる。

 その頃「一度生活のレベルを上げると下に落とすことはできない」と公言する人が周りに多くて、彼らはいつもたいへんお金のことで苦しんでいました。「生活のレベルを上げる」と言っても、蕎麦屋に入ったときに「かけそば」を食べていたやつが無理して「天ぷらそば」を食べるような程度のことなんですよ!でも、そこで生じた数百円の出費がたまりたまって夜も寝られないほどの苦しみをもたらす(ことがある)。

 僕は収入の内側で暮らすということをつねに原則にして生きてきましたので、借金というのをしたことがほとんどありません(生涯に3回だけです。もちろんちゃんと返しました)。

 僕は所持金の額でその人の社会的地位が決まるとか、人間としての貴賤が決まるということは生まれてから一度も思ったことがありません。

 それはたぶん子どもの頃に、戦中派の父親から「学歴とか社会的地位とか財産の有無とかいうことは、人間の質と何の関係もない。その人が『哲学を持っているか』どうかだけがたいせつなのだ」と繰り返し教えられたせいもあると思います。

 

 父は満洲事変の年に満洲に渡り、戦争が終わって一年後に北京から帰国した人です。15年間中国大陸にいて、人間が(植民地を支配している宗主国民であるときや、戦争で市民を虐殺できるだけの実力差があるときや、あるいは敗戦になって逃げ出すときに)どれほど利己的で、無慈悲で、非情な存在たりうるのかを実見してきたのだと思います。その結論が「相手が何国人であれ、ゆるがぬ信念をもっている人、一言を違えない人だけを信じろ」という教えでした。僕はその点では父の教えに生涯忠実だったと言っていいと思います。