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武道的思考とは「無限消失点を目標にすること」だと言いましたけれど、これは目的地さえ合っていれば、どこで修行が終わっても構わないという意味なんです。
2024年11月4日の内田樹さんの論考「『無知の楽しさ』についての質問票」(その5)をご紹介する。
どおぞ。
内田先生もご存じでしょうけれども、最近韓国の作家ハン・ガン氏がノーベル文学賞を受賞しました。それで、人々が書店に押しかけて、いきなりハン・ガン氏の本が100万部以上売れるという、歴史的な出来事がおこっています。ちょっと前までは、成人の半分以上が年に1冊も本を読まないという悲嘆にも無関心な雰囲気だったのとはまったく対照的です。
このような現状、さらに、私たちの時代に本を読むということ、これからの文学と本の運命や意味はどうなるか等、内田先生のご意見を聞かせてください。
どんなきっかけからでも本を読むのはいいことです。書物が世界を変えるためには、「大量に頒布されて、大量に読まれて、多くの人が書物ついて語る」ということが必要です。どんなに素晴らしい内容の本でも、限られた読者にしか受け入れらない場合には、それが現実変成力を発揮するまでには、長い時間がかかります(長い時間を経由したけれども、ついに現実を変えるには至らなかった...ということもあります)。
ですから、書物については「リーダビリティ(readability)」というか「リーダーフレンドりー(reader friendly)」という要素が必要だと僕は思っています。
どちらも突き詰めると「読みやすさ」という意味ですけれども、別にそれは「簡単に書かれている」という意味ではありません。そうではなくて、この本は「あなた」に向けて書かれているのだと読者をまっすぐにみつめる「まなざし」のことです。自分のためにこの文章は書かれているということは、読者には伝わるんです。本の内容が理解できなくても、本の宛先が自分であることはわかる。「コンテンツ(contents)」と「宛先(address)」は別の次元に属すからです。
これまでに何度も書いたことですけれど、レヴィナスの 『困難な自由』という本を初めて読んだ時、そこに書かれていることはほとんど理解できませんでしたけれど、僕がこの本の読者に想定されているということはわかりました。「この本の中味が理解できるような読者に自分を育て上げろ」というレヴィナス先生からのメッセージははっきり伝わってきました。どうしてわかったのか。たぶんレヴィナス先生が本の冒頭からいきなり「惜しみなく」先生の哲学的叡智の本質を読者に叩き込んできたからです。武道的な比喩を使えば、入門したその日の最初の稽古で、師匠が「奥義」を教えてくれたようなものです。そんなこと、ふつう行きずりの人にはしません。でも、いきなり「奥義・秘伝」から教え始めたんです。レヴィナス先生は。それはこちらも電撃に打たれた気分になります。誰もがそういう書物に出会えるといいですね。
私たちが後悔しない人生を生きる方法はあるのでしょうか。 最善を尽くして自分の人生を最高にする方法があるのでしょうか。
これはいくら何でも抽象的過ぎる質問だと思いますけれど、ほんとうに答えをお知りになりたいのでしょうから、僕の意見を申し上げます。「後悔しない人生」を送るということを事前に計画することはできません(未来は霧の中ですからね!)。
未来には何が起きるかわからない。事故に遭うかもしれないし、天変地異に巻き込まれるかも知れないし、邪悪な友人に苦しめられるかも知れないし、パートナーに裏切られるかも知れないし、業病に取り憑かれるかも知れないし・・・そういうこと全部起きても(僕の場合は全部起きました)、あとから振り返って「まあ、こんなもんだよね」と思えればそれで「後悔のない人生」だったということになります。
後悔するかしないかは、ことが済んだ後のマインドセットなんです。事前に「いずれ後悔すること」を回避することはできません。のちに僕をひどい目に遭わせた人たちだって、知り合った時はみんな「いい人」だったんですからね。先のことはわかりません。
だから、人生が終わる頃に「まあ、良いことも悪いこともあったけれど、総じていい人生だったよ」とにっこり笑えればそれでいいと思います。
チョンさんはまだお若いので、後悔のことはいまは心配することないです。あと40年くらいしてから、「おお、そろそろお迎えも近いようだから、後悔するのかしないのか、ちょっと人生を振り返って点検してみよう」と(すごく)暇な日にでもお茶でも飲みながらぼんやり考えてみればいいんじゃないでしょうか。
最後のご質問ですけれど、「最善を尽くして自分の人生を最高にする方法」なんてあるんでしょうか。「最善」とか「最高」いう言葉はあまり使わない方がいいと思いますよ。だって、「最善」も「最高」も「それ以上はない」ということですから、まず自分の実人生についてはそう言い切れる人なんかいないと思いますよ。ということは、自分の人生はすべて「最善マイナス何点」「最高マイナス何点」という減点法で表示されることになります。それつまらないと思いませんか。
野球で、すべての打席でヒットを打つのが「最善・最高」で、あとは未熟未完成だからダメというようなマインドセットでいるプレイヤーっていないと思いますよ。「3割打てたからランキング入りできそうだ」「2割5分いったから、来季はレギュラーいけるな」くらいの「程度の差」の意味をいつも考えているはずです。それでいいんじゃないですか。減点法じゃなくて、加点法で考えれば。「人生の持ち点」(なんてものがあるかどうかわかりませんが)が「ゼロに比べればずいぶんまし」だと思って暮らす方が楽しいと思いますよ。
武道的思考とは「無限消失点を目標にすること」だと言いましたけれど、これは目的地さえ合っていれば、どこで修行が終わっても構わないという意味なんです。
東京駅から新幹線に乗って京都駅へ向かうというのが仮に修行だとします(実際はシリウスなんですけれど、喩え話ですから簡単にしますね)。新幹線に乗った時点で修行開始です。才能がなかったり、武運に恵まれなくて、乗って五分後に品川駅で息絶えても、遠路はるばる名古屋駅まで辿り着いても、修行者にとっては同じことなんです。「修行をした」という事実だけがたいせつで、どこまで到達したのかも、誰より遠くまで行ったのかも、あるいは誰より速く進んだのかも、すべてまったく何の意味もないことなんです。京都駅にたどりつけなかったことを悔いる修行者もいなし、他の誰かのより一駅先までたどり着いたことを誇る修行者もいない。だって、「天下無敵」駅には誰もたどりつけないんですから。
武道で言う「無限消失点」が「最善」「最高」とは違うのはわかりますね。「最善」「最高」は現世の出来事なんです。他者との相対的な比較や競争の中で成立する妄想なんです。でも、「無限消失点」はこの世ならざる目標です。あまりに遠いので、他者と比較なんかしても意味がない。(「俺の指先の方がお前の指先よりシリウスに1センチ近いぜ。勝った」なんて言って喜ぶバカはいませんからね)。
はい、僕からの回答は以上です。難しい質問ばかりでしたので、疲れましたけれど、僕が言いたいことがおおよそお分かり頂けたらうれしいです。
とりとめもなく、たくさんの質問を投げかけてしましましたが、先生のお答えをわくわくしながらお待ちしています。長いお手紙を読んでくださってどうもありがとうございます。
いつか内田先生と深くお話をする日が来ることをこころより楽しみにしております。