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内田樹さんの「『勇気論』韓国語版まえがき」(前編) ☆ あさもりのりひこ No.1612

儒教的なものの考え方は、現代においても若い人たちが生きる上で強い指南力がある

 

 

2024年11月10日の内田樹さんの論考「『勇気論』韓国語版まえがき」(前編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 韓国の読者のみなさん、こんにちは。内田樹です。

 『勇気論』を手に取ってくださって、ありがとうございます。

 どんな本だかタイトルだけでは見当がつかないと思いますので、とりあえずこの「まえがき」だけ最後までお読みください。

 

 これは僕のごく個人的な意見なのですが、中国と韓国と日本は「東アジア文化圏」というふうに大きな文化圏に含まれるのではないかと思います。21世紀に入って、それぞれの国のかたちも表情もすっかり変わってしまいましたが、それでもこの三国は深いところでは「同じ根」で繋がっている気がします。

 それはこう言ってよければ儒教的な考え方です。

 こんなことを書くと、たぶん韓国の若い人は「そんな古いもの、もう韓国社会には影もかたちもありませんよ」と苦笑いするかも知れません。それを言ったら日本でも、中国でも、若い人たちの(若くない人たちも)反応は同じでしょう。儒教的なんて・・・そんなもの、今の社会にはかけらもありませんよ。みんなとりあえず自己利益の最大化を最優先して生きている。競争相手を蹴落として、勝った者がすべて取り、敗けた者は野垂れ死にしても自己責任。そういうワイルドでクールな時代なんですよ。「儒教的なもの」なんて、どこにもありゃしません、と口の端を歪めて言うような気がします。

「だいたい、あなたの言う『儒教的なもの』って何ですか?」と訊いてくるかも知れません。

『勇気論』はそれについて書いた本です。

 

 というのは嘘で、書き始める時はそんな気は全然なかったんです。編集者から「勇気」についての質問の手紙が来て、それに答えを書いているうちに、積み重なって、本が一冊できてしまった・・・そういう無計画な作りです。でも、本を読み返してみたら、この本のメッセージの一つは(全部じゃないですよ、もちろん)「儒教的なものの考え方は、現代においても若い人たちが生きる上で強い指南力がある」ということであることがわかりました。

 自分で本を一冊書いておいてから、後になってなるほど自分はそういう本を書いたのか、と気がついた。そういうことってあるんです。

 

 この本の中味は、一言で言うと、「東アジア的な成熟とは何か?」という問いをめぐる考察です。

 すみません。「儒教的なもの」についての話が済まないうちに、「東アジア的成熟」に話が移ってしまって。でも、ご心配なく、この二つは「同じこと」なんです。「儒教的なもの」をすごく具体的、限定的に表現すると「東アジア的成熟」ということになる。僕はそう考えています。

「東アジア的」と地理的に限定しているということは、その対立概念がどこかにあるということです。僕はとりあえず「東アジア的」を「欧米的」を対置しています。つまり、東アジアでは人が「成熟する、大人になる」というときに(漠然としてではあれ)、ある理想のかたちがあり、欧米にも固有の「成熟する、大人になる」イメージがある。そして、その二つはずいぶん違うものである。というのが僕の仮説です。

 東アジアの人たちは東アジア的に大人になり、欧米の人は欧米的に大人になる。

 社会集団ごとに「あるべき大人の像」がずれているというのは、べつに特に珍しい話ではありません。民族学者に訊いたら、「当たり前じゃないか」と言われるでしょう。それぞれの集団は固有の「大人像」を持っており、それはどれが正しく、どれが上等だということはなく、どれも等しく一個の民族誌的偏見に過ぎないんだよ、と。

 そうだと思います。それについては僕も異論はありません。

 でも、僕は一人の東アジア人として、「東アジア的成熟」にとても心惹かれるのです。

 逆に言うと、「欧米的な成熟」にはあまり興味が持てないのです。

 欧米社会では、「あの人は大人だ」という言葉がある種の重みを持って語られるということがないような気がします(映画やドラマを観ている限りはそうです)。「あの人は力がある」とか「あの人は仕事ができる」とか「あの人は頭が切れる」というような評価は繰り返し言及されますけれど、「あの人は大人だ」という評語はまず口にされることがない。「あの人は大人だから、あの人の言葉に耳を傾け、あの人の指示に従おう...」という物語の展開になることがほとんどない。そんな気がします(統計的根拠はありませんけど)。