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内田樹さんの「『勇気論』韓国語版まえがき」(後編) ☆ あさもりのりひこ No.1614

師弟関係を通じて、日々成長を遂げて、連続的に別人になってゆく物語が東アジアでは、人間的成熟の基本プロセスと考えられている。

 

 

2024年11月10日の内田樹さんの論考「『勇気論』韓国語版まえがき」(後編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 話が変りますけれど、この間アメリカ大統領選がありましたね。ドナルド・トランプが地滑り的勝利で47代大統領に選ばれました。トランプは選挙戦の間は、非常にシンプルで、攻撃的な主張を繰り返し、その使用語彙も多くは「小学校6年生程度」とメディアに揶揄されていました。でも、側近のインタビューを読むと、トランプはふだんは物静かで、「他人の話によく耳を傾ける」タイプの人なのだそうです。確かにそうでなければ、十年以上にわたって巨大な「政治的チーム」を率い続けることなんかできるはずがないですよね。その記事を読んで僕はつい「ふ~ん、トランプって、けっこう大人なんだな」という感想を洩らしてしまいました。僕はそう言う「人間の複雑さ」をつい高く評価してしまうんです。相互に矛盾するような多面性を備えた人間をつい好ましく思ってしまう。

 でも、トランプに投票したアメリカの有権者たちは別に「複雑な人物」だから投票したわけじゃないと思います。「わかりやすいことを言う人」だから投票した。

 この辺りに東アジアと欧米の「人を見る目」の差があるんじゃないかという気がします。

 

 話を戻しますね。欧米は人間の成熟において「アイデンティティーの発見」ということを重く見ます。

「ほんとうの自分」「ありのままの自分」「素の自分」というものが人格の核心にある。でも、いろいろな外的条件が、「ほんとうの自分」に出会うこと、「ほんとうの自分」を発現することを妨害している。「いろいろな外的条件」というのは、例えば「お金がない」とか「差別される集団に属している」とか「『ほんとうの自分とは違う人』に誤認されている」とか、そういうことです。

 そういう障害を乗り越えて、「ほんとうの自分」に出会い、それを発現すると、人は爆発的なパフォーマンスを達成することができる。

 スーパーヒーローものは全部「そういう話」です。スーパーマンもバットマンもアイアンマンもスパイダーマンも、みんないろいろあった末に「ほんとうの自分」に出会って、ヒーローになる。もちろん、そのあとに「アイデンティティーの揺らぎ」をときどき経験します(そうしないと「続編」が作れませんからね)。でも、必ず最後には「ほんとうの自分」に立ち還って、人々の歓呼の中でエンドマークを迎える。

 こういう物語って、いささか徴候的だと思いませんか。

 だって、韓国にもそういう話って、あまりないでしょう? いや、僕だって韓流ドラマを全部観ているわけじゃないですから、あるのかも知れませんけれど、でも、「ほんとうの自分に出会う話」は主流ではないと思います。

 それは日本でも同じです。日本の場合はマンガが典型的ですけれども、日本発で世界的に人気があるマンガやアニメは、ほぼすべて「主人公が師に就いて修行して、だんだんと成長してゆく話」です。(『鬼滅の刃』も『NARUTO』も『Hunter×Hunter』も・・・)

 これらの物語では、主人公は誰も師弟関係を通じて、連続的に自己刷新して、日々別人になってゆきます。これが東アジアに典型的な成熟モデルではないかと僕は思います。

 つまり、東アジアでは成熟は「連続的な自己刷新を通じて別人になること」として理解され、欧米では「ほんとうの自分を発見すること」というふうに理解されている。

 まったく違う。

 繰り返し申し上げますけれど、どちらが良いとか、どちらが正しいという話をしているわけじゃないんです。文化圏ごとに「成熟」について定義の違いがあるという話をしているだけです。

 

 師弟関係を通じて、日々成長を遂げて、連続的に別人になってゆく物語が東アジアでは、人間的成熟の基本プロセスと考えられている。僕が「儒教的なもの」と呼んだのはこのことです。

 そして、韓国社会には今も「儒教的な感受性」は生きているのではないかと僕は思います。表面には出てこないけれど、生き延びているのではないかと僕は思います。というのは、僕の本がずいぶん読まれているからです。この本がたしか僕の韓国語訳の51冊目だそうです。

 隣国の人の本がよく読まれるというのは二つのことを意味しています。一つは「同じようなことを書く人が国内にはあまりいない」。一つは「そういう本に対する読者の側のニーズがある」です。

 もしかすると、これは僕がさまざまな書物を通じて「儒教的なメッセージ」を発信しているのだけれど、「そういうものを書く人」が韓国にはあまりいない。でも、「そういうものを読みたいと思っている人」はかなりの数がいるということではないでしょうか。

 

 冷静に自己評価すると僕は「かなり儒教的な人間」です。武道でも哲学でも、はるか見上げるような偉大な師に就いて数十年にわたって修行を続けてきて、「こういう話」をするような人間になりました。典型的に東アジア的な人間だと言っていいと思います。さすがに僕のような「修行者」は日本社会でも例外的です。

 僕は自分のことを「日本文化の少し古い層から生まれてきた人間」だと思っています。「現代日本人」ではないんです。日本の文化的風土のかなり深い地層から這い出してきた「古い日本人」なんです。その「古い日本人」であるところの僕の書くものを読んで「こういう考え方、わかるなあ」と思ってくださる読者が韓国にはいる。そうだとすれば、僕はそういう読者に向かって「もうちょっと深いところを掘り返すと、僕たちを結び付けている『同じ根』がみつかると思うよ」とぜひお伝えしたいと思います。

 

 

 長くなりましたので、この辺にしておきます。どうぞそういうおつもりで最後まで読んでください。