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内田樹さんの「思考と身体~頭でわかること、身でわかること~」(前編) ☆ あさもりのりひこ No.1631

嫌なこと、無意味なことに耐える能力において卓越した人たちが順調に出世している。政治、経済、学術、メディア、どの世界でもそうです。トップにいる人たちっていうのは、不快なこと、意味がないこと、理不尽なこと、非人間的なことをすることに心理的抵抗を感じない人たちなんです。

 

 

2017年2月6日の内田樹さんの論考「思考と身体~頭でわかること、身でわかること~」(前編)を紹介する。

どおぞ。

 

 

引き裂かれる人間

 皆さん、こんにちは。内田樹です。本日のテーマは「思考と身体」ですが、思考と身体という二元論的な枠組みは、便宜的な二項対立であって、実は、思考も身体も人間という存在にとってはひとつのものです。養老孟司先生がよくおっしゃるように脳も臓器の一つですから、思考も身体なんです。

 しかしこれをあえて、「思考と身体」「脳と身体」「精神と身体」というように二元論的に分けて考えるのは、人間が二項対立でしか物事を考えられないからです。本来は対立していないものを無理に二項対立せざるを得ないのは、人間にとっての自然な状態が、絶えず二項の間で引き裂かれ、揺れ動いている、落ち着きの悪い状態だからなんだろうと僕は思っています。何を言っているのかと思われるかもしれませんが、人間は二項間でうごめくのが自然であり、それが人間的であり、豊饒なものであるという結論にもっていくための“まくら”として聞いておいてください。

 

過剰適応して耐える

 それでは、今、我々がどのような社会に生きて、どのような問題を抱えているのか、具体的なところから話をしていきたいと思います。

 ご紹介いただいたとおり、私は神戸で凱風館という道場を主宰していますが、そこでは「寺子屋ゼミ」という勉強会もおこなっています。道場に机を並べて、受講者の発表をめぐってみんなで意見交換をするのですが、先日は、息子さんを東京大学へ進学させた親御さんが、その受験勉強の過程で感じたさまざまなことを話してくれました。その中で印象深かったことは、受験生は小学生のころから受験によるふるい分け、格付けに過剰適応してしまうということでした。受験生たちは高学歴を手に入れることで、職業選択や居住や移動の自由を手に入れたいと思って受験勉強をしています。将来、大きな自由を手に入れるために今の不自由に耐えている。言い換えれば「将来的にルールを気にしないで生きられるようになるために、今はルールに過剰適応する」ということです。でも、そこから離れるために、迂回的にそこに居つくというのは、それほど合理的な戦略なのか。大学の研究者に多い例ですけれど、大学の研究職に就いて、自分の好きな研究をして、知的愉悦に浸ったり、思い通りの教育をして、あらまほしき若者を育成するためには、まず専任教員のポストを手に入れなければならない。まずは既存の学界で支配的な価値観を受け入れ、無意味で煩瑣なルールに従順に従ってみせなければなりません。自由を手に入れるために、まず自由を断念しなければならない。他の国でも事情はそれほど変わらないのかもしれませんが、日本はこの「自由を断念させる」社会的圧力が異常に高いように思います。

 現在の日本は、現在の社会のルールや価値観に過剰適応してみせなければ、そこから逃れるためのドアノブに手が届かないという仕組みになっています。今の日本がダメになった理由はまさにそこにあると思います。

 

無意味なこと

 今の日本で子どもたちにまず要求されるのは、「それ、意味ないんじゃないかな」とか「それ理不尽でしょう」とか「不条理だ」と思えることがらについて、その言葉を呑み込んで、まず耐えるということです。受験勉強というのはまさにそのための訓練だと思います。「こんなことをして、何の役に立つのか?」という問いを自分で封殺して、「あきらかに無意味なこと」に耐える能力を訓練する。だから、現代日本のエリートたちは例外なく、子どもの頃から、「無意味なことに耐える」という長期にわたる苦役に耐えきった人たちなんです。

 無意味さに耐えるというのは、言い換えれば「葛藤しない」ということです。心と身体を硬直させて、脳の中のある部分だけを選択的に活動させ、ある回路だけを鍛える。受験勉強は子どもの心身にとってきわめて不快な体験ですけれども、それにこまめに反応していると苦しくて体がもたない。だから、自分を守るための生存戦略として意味のないことをすることが気にならなくなる。

 僕も昔、兄貴からそう言われたことがあります。僕は受験秀才でしたけれど、2歳年上の兄は勉強が嫌いでした。その兄が僕が高校受験のための勉強をしているときに部屋に入ってきて「樹、何やってんだよ」って言うんです。「勉強してるんだから邪魔しないで」って答えると、覗き込んできて「お前、その問題集何回目だよ」って。「3回目だよ」「3回目ってことはお前、答えを全部知ってるんだろ?」「知ってるよ」「えっ、じゃあ自分が知ってる問題の答えをただ書いてるだけなの?」「そうだよ」「お前、よくそんな意味のないことできるね」って言うんですよ。そしてこう言ったんです。「樹、お前は自分のことを『勉強ができる』と思っているだろ? でもね、それは違うよ。お前はね、ただ『意味の無いことができる』能力があるだけなんだよ。」そう言われたのは今からもう半世紀以上前のことですけど、今でもこうして憶えているということは、よほど僕の肺腑をえぐったんでしょう。

 「寺子屋ゼミ」での発表を聞いた時、そのことを思い出しました。受験勉強というのは「無意味なことに耐える能力」を考量する仕組みです。そして、現代日本社会は「無意味なことに耐える能力」が過剰に高く評価されている。

 

葛藤がない

 今の日本の社会を遠景に退いて見るとわかりますが、社会の上の方にいる人たちって、みんなそうなんです。嫌なこと、無意味なことに耐える能力において卓越した人たちが順調に出世している。政治、経済、学術、メディア、どの世界でもそうです。トップにいる人たちっていうのは、不快なこと、意味がないこと、理不尽なこと、非人間的なことをすることに心理的抵抗を感じない人たちなんです。

 「これはおかしい」と思うことってあるでしょう。上から命令されたことでも「これは人としてやってはいけないことだ」と思うことがあって当然です。そして、そういうことがあれば葛藤があるはずなんです。でも、今の日本のエリートたちは葛藤しないんです。

 

 本来であれば、「人として」それはおかしいということってあるはずなんです。惻隠(そくいん)の情とか、家風とか、自分自身の信念とか、そういう自然に自分のうちにある基準が外から強いられる命令と対立することがあるはずです。そしたら、ふつうはそこで苦しむはずなんですよ。しかし、今の日本のエリートたちはそういうことでは苦しまない。それは彼らが、自分の中にある情理や筋目や倫理や信条を、人としての、生き物としての実感を押し殺す訓練を幼児期からずっとしてきたことの成果なんです。指導的な立場にある人ほど、それに熟達している。葛藤しない人たちがエリートになって、この国の舵取りを委ねられている。そしてその予備軍が後から後から次々と送り込まれている。こんな仕組みを続けていたら、先行き日本はどうなるのか、僕は不安です。