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今の日本社会は馬鹿しか出世できない社会です。葛藤しない人間、無意味なことにいくらでも耐えられる人間しか出世できない社会です。理不尽なことや、非人道的なことを命じられても、何の内的葛藤もなく、それが実行できる人間が「自己管理能力が高い」と評価されている。
2017年2月6日の内田樹さんの論考「思考と身体~頭でわかること、身でわかること~」(後編)を紹介する。
どおぞ。
リーダーの条件
ふつうに暮らしていると、「こうしろ」と命じられたことにそれなりの整合性も合理性もあるようだけれど、どうしても俺は納得できない、呑み込めないということが頻繁にあるははずなんです。葛藤があるはずなんです。でも、それは人間が生きてゆく上での自然だと僕は思います。AかBかどちらかに片づけることができないときは、AとBの間で葛藤すればいいんです。葛藤するのが自然なんです。でも、現代人は葛藤ということを忌み嫌う。話を簡単にしたがる。AでなければB、BでなければAみたいに。プランAに反対なら対案を出せ。対案がないなら丸のみしろというような言葉づかいをみんながするようになった。いつからでしょう。この25年ぐらいでしょうか。
久しく、大人の条件というのは、清濁併せ呑むとか、融通無碍とか、対立する二項のそれぞれの顔を立てて、中を取って調停できる能力でした。そういう人を社会的な指導者として戴いてきたわけです。それぞれに一理はあるが、違う原理がぶつかっている時に、次元も価値観も度量衡も違う、どちらにとっても同じ程度に不満足な解を導き出すことができる人が半世紀前ぐらいまではリーダーだった。「三方一両損」という逸話がありますが、関係者全員が同じ程度に不満であるような「落としどころ」を見つけ出し、それを受けいれさせることのできる技術知、そして、その提案が全員のそれぞれの願いを部分的にではあれ代表しているという包容力、こうした力を持つことが、日本だけではなく、世界で久しく指導者の条件だったわけです。
しかし今、そういう条件をリーダーに求める社会はどこにもありません。今求められているのはシンプルなリーダーです。とにかく多数決で正否を決しようとする。51対49だったら51の勝ち。49の人間は負けたんだから黙っていろ、と。相対多数を取った側が正義だと言い切るようなタイプの人間がリーダーに祭り上げられている。ですからこの種のリーダーは自分を支持する51%だけを代表し、自分に異を唱えた49%の利害はまったく代表する気がない。けれども、リーダーというのは本来、反対者も含めて集団を代表することができる人間のことです。当たり前のことです。今さら僕が言うまでもなく、ロックやホッブズやルソーが説いた近代市民社会論の基本中の基本です。反対者を含めて集団を代表する。敵対者とともに統治する。それが近代市民社会の基本ルールです。
でも、今時そんなことを言う人間はどこにもいません。政治家たちは誰もが自分の支持者の利害だけを代表すると公言している。自分を支持しない人間はその利害を配慮するどころか、積極的に潰しにゆく。そう平然と言い放つ人間が世界中で集団のリーダーとなっている。
どこかの段階で、そういう人間しか上にあがっていけない仕組みになってしまったんです。端的に言えば、「馬鹿しか出世できない仕組み」なんです、これは。今の日本はまさにそうです。今の日本社会は馬鹿しか出世できない社会です。葛藤しない人間、無意味なことにいくらでも耐えられる人間しか出世できない社会です。理不尽なことや、非人道的なことを命じられても、何の内的葛藤もなく、それが実行できる人間が「自己管理能力が高い」と評価されている。
身体でわかること
葛藤するということは人間の自然です。葛藤を通じて人間は成熟する。器が大きくなる。人として円やかに、ふくよかになり、感受性も敏感になるし、視野も広がるし見識も高くなる。
宗教で言えば、修行というのはまさに葛藤そのものなわけですよね。自分が今一体何をやってるのか、リアルタイムではさっぱりわからない。行というのは、始めるに先立って、「この行には、これこれこのような効能があって、これこれこういうことをすれば、こういう能力が開花する」というふうにシラバス的にその効用が開示されているわけありません。いきなり始まる。何をやっているか本人には意味がわからない。でも、「わからない、わからない」と言いながら続けていると、ある日気づきが訪れる。身体の奥底の方から自分がしていることの意味がじわじわとわかってくる。振り返ると行を始める前とは別人になっている。ものの見方も変わっているし、ものを量る時の価値の度量衡も変わっている。それまでは意味の分からなかったことも、だんだん分かってくる。
でも、それは「わからない、わからない」という葛藤があるからもたらされる成果なんです。行において最大の禁忌は「わからないことに慣れてしまう」ということです。何の意味があることなのかわからないけれど、やらないと叱られるから、何も考えずに我慢する。行は「我慢大会」ではありません。でも、葛藤が嫌いな人は「我慢する」という単一目的に手持ちのリソースを全部注ぎ込むというシンプルな解を選んでしまう。思考を停止し、身体が送ってくるさまざまなシグナルを無視する。心身を硬直させ、鎧をまとうように鈍感になって、「無意味」に耐える。でも、こんなものは修行ではありません。ただの「我慢大会」です。修行というのはそんな単純な解に帰着することではない。葛藤することです。
教育というのはそういうものです。学びに先立ってこれから何を学ぶのかが事前に開示されることはない。学びの全行程とその結果獲得される効能が事前に開示されていて、それをインセンティブにしてなされるものは学びではありません。それはただの知識や技術の「買い物」に過ぎません。スーパーの棚に並んでいる商品をどれほど買いためても、消費者の本質は変化しません。買い物を始める前と終わった後で消費者が別人になるということはありません。手持ちの貨幣が減って、商品が増えるだけです。
学びというのはそういうものではありません。学び始める前と学び終えた後で別人になっていることです。何のために学ぶのかその意味を言い表す言葉を学び始める前の段階ではまだ持っていない。その言葉を学びを通じて獲得する。そういうダイナミックな構造のものです。
身体の感覚から考える
けれども現代では、シンプルな議論、シンプルな仮説、シンプルな価値観で世の中をスパッと切り取ることが好まれる。「それが正しい、それしかない」という言い方が好まれる。どちらが正しいか一言で言い切れる人間の方が「どちらにも一理ある」と葛藤する人間よりも重んじられる。そういう人を再生産し続ける仕組みが完成してしまった。危機的な事態だと思います。こんなことが続いていったら、集団は解体してしまう。
私が申し上げたいことは単純なことなんです。葛藤してください、それだけです。正しい生き方をしろとか、こういう理論に従って生きろとか、こんな社会をつくれとか、そういう話じゃないんです。どういう社会をつくっていったらいいか分からない、どういう生き方をしたらいいか分からない、誰を信じたらいいか分からない、という当たり前のところで踏みとどまって欲しいと、そうお願いしているんです。
でも、それが嫌なんです現代人は。その理由が僕にはさっぱり分からない。そんなに嫌ですか、未決定な状態で宙吊りになるのが。葛藤は楽しいですよ。ああでもない、こうでもないと頭を抱えているのって、僕は楽しいです。でも、誰も聞いてくれない。
すぐに分かりやすく答えを教えろと言われる。今日みたいな講演をした後でも「『答えのない時代』だそうですけれど、そういう時代にはどう生きればいいのでしょう?」と平気で訊いてくる。新聞記者なんかでも長いインタビューのあとで、「では、一言で言ってわれわれはどうすればいいんでしょう?」って聞いてきます。正解がないんだから、葛藤してくださいというという話をしているのに、なんで答えを求めるんだよ、何聞いてたんだよ、と思っちゃいますね。
これは現代人に取り憑いた深い病だと思います。どんな問題にもシンプルでクリアカットな解決策があると思っているんです。その解決策が実際に有効かどうかは知らないけれど、とにかく何か一つ答えを決めてもらわないと身動きできないと思い込んでいる。自分の中でざわめいている違和感とか、気分の悪さは無いことにしちゃうんです。
表面的には合理的みたいだけれど、何だか腑に落ちない。逆に、何を言っているのかよくわからないけど、すっと腹に収まる。そういうふうな身体感覚を基準にして葛藤することがたいせつなんじゃないかと思います。
ご清聴ありがとうございました。