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その時代に経営者の「鑑」と言われたのは松下幸之助や井深大や本田宗一郎であった。彼らは社員たちがどうすればその潜在的な能力を開花できるか、どうすればオーバーアチーブメントを果たすようになるか、そのための就労環境の整備にもっぱら知恵を絞った。町工場を短期間のうちに世界的な企業に成長させたこれらの経営者たちは、組織マネジメントとか、社員の精密な勤務考課とか、そういうことには副次的な関心さえ示さなかった。
2025年3月31日の内田樹さんの論考「日本の現状と危機について」(その1)をご紹介する。
どおぞ。
『建設労働のひろば』という変わった媒体から寄稿を頼まれた。12000字という字数要請だったので、あちこちに脇道に入り込んで無駄話をすることになった。たまにはそういうのも許して欲しい。
寄稿依頼の趣旨は「劣化する民主主義、広がる格差、極まる『自分ファースト」、戦争が終わらない世界情勢など、国民が直面する危機的な日本の現状とその要因について、また(ほんの少しでも)希望について語っていただけないでしょうか」というものだった。
同じようなことをよく訊かれる。だから、答えもだいたいいつも同じである。だから、以下の文章を読まれた方が「これ、前にどこかで読んだことがあるぞ」と思っても当然である。でも、それを「二重投稿だ」と咎められても困る。「現実をどう見ますか」という問いにそのつど新しい答えを出せるはずがない。いつもの話である。
長く生きてきてわかったことの一つは、歴史は一本道を進むわけではなく、ダッチロールするということである。人々が比較的知性的で人情豊かな時代もあるし、反知性主義者が跳梁跋扈する時代もある。
私の知る限りでは、1950年代の終わり頃から1970年代の終わり頃までは、日本社会はわりと「まとも」だった。それは戦中派の人たちが社会の中枢にいたからだと今になると思う。戦中派の人たちは国家というのがどれほど脆いものか、どれほど国民を欺くものかを身をもって思い知らされた。でも、その脆くて信用ならない「国家」という枠組み以外に生きる場所がないこともわかっていた。人間という生き物が状況次第でどれほど非道にも残虐にもなれるかも実見したし、その逆に人間が時にどれほど勇敢であったり、道義的であったりするのかも見てきた。
世の中は複雑だ。一筋縄ではゆかない。人間にはいいところも悪いところもある。「そういうものだ」と受け入れる以外にない。そういうほとんど諦観に近い「清濁併せ吞む」的な鷹揚さが戦中派の人たちには共通してあったと思う。人間に厚みや奥行きがあったと言ってもいいし、「陰の部分」や「誰にも言えない秘密」があったと言ってもいい。そういう人たちは人間の愚かさや軽薄さに対して割と寛大であった。「人間にそれほど期待してもしかたがない」と諦めていた部分があった。でも、それは私たち子どもにとってはありがたい環境だった。大人たちは瓦礫の中から社会を再建することに忙しかったし、子どもの数も多かったから、子どもたちは「好きにしていなさい」と放置されていた。
その時代の日本がわりと「まとも」だったのはその「ゆるさ」が原因の一つだったと思う。実際に日本はその時代に驚異的なペースで経済成長を遂げ、短期間のうちに世界第二位の経済大国になり、80年代半ばにはアメリカを追い抜いて、世界第一の経済大国に指先がかかっていた。85年のプラザ合意でその夢は断たれたけど、上の方にいる人たちが細かいことをがたがた言わずに、若者を好きにさせてくれた時代に経済活動は活発になるということは、とりあえず私たちの世代にとっては所与の現実だった。この確信はその後も揺らいだことがない。
この時期は政治活動もきわめて活発だった。1960年代の終わりから、70年代の初めにかけて、全国の大学の多くはほとんど教育活動ができない状態だった。無法状態の大学で学生たちはここでも「まあ、好きにしてなさい」と放置されていた。でも、なぜかこの時に学生院生だった人たちの中からその後世界的な水準の業績を上げる研究者が輩出した。
70年代に日本人の40%以上が社会党・共産党に支持された政治家が首長である革新自治体で暮らしていた。自民党政権の統制が及ばない地域が日本列島に広がっていたわけだから、政府にとっては納得のゆかない時代だっただろうが、この時期の経済成長率は毎年10%(!)を超えていた。不思議なものだ。あちこちでデモやストライキが行われている時期が、戦後日本では最も経済活動が活発だったのである。
そして、政治の季節が終わって、高等教育機関がきびしい統制の下に入るようになるにつれて、学術的アウトカムは次第に貧しくなり、「内部統制」がその極限に達して、すべての研究教育活動が中枢的に管理されるシステムになった時に(今がそうだ)、学術的アウトカムは質量とも戦後最低レベルになった。経済成長もぴたりと止まった。
経済成長にはさまざまなファクターが関与しているから、簡単なことは言えないが、管理と創造がゼロサムの関係であったことは戦後日本においては否定できない歴史的事実である。社会が中枢的に管理されていない自由な時代に人間はそのパフォーマンスを最大化し、逆に管理が徹底し、個人の可動域が制約されるにつれて創意は失われ、生産性は低下した。管理と創造は食い合わせが悪い。これは1950年生まれの私が経験的に確言できることである。
それくらいのことは長く生きていれば誰にでもわかるし、誰にでも言える。別に特段賢い必要もない。でも、それでも、これは長く生きていないとわからない。20年、30年という短いタイムスパンの間で起きた出来事だけを見ていると、「管理と創造がゼロサムの関係にある」というようなことはわからない。理屈としてはわかっても、実感としてはわからない。
今、日本社会で制度設計をしている人たちのうち40代50代の人たちは日本社会がアナーキーでワイルドで鷹揚で、それゆえ創造的だった時代を知らない。見たことがないのだから仕方がない。だから、子どもの頃から刷り込まれてきた「管理を徹底することで組織は効率的に機能する」というイデオロギーを疑うことを知らないでいる。気の毒である。
「組織マネジメント原理主義」というのは、私が若い頃にはなかった。トップダウンの組織が最も効率的であると信じている人は戦後の企業経営者にはほとんどいなかった。彼らが知っているトップダウン組織の最たるものは軍隊だった。そして、それがどれほど非効率で反知性主義的なものだったかを彼らは敗戦という事実を通じて骨身にしみて知っていた。だから、上位者の命令がどれほど理不尽であっても、それに唯々諾々と従うイエスマンが最も重要な労働者の資質であるというようなことを言うと「軍隊じゃないんだから」という半畳が入った。
その時代に経営者の「鑑」と言われたのは松下幸之助や井深大や本田宗一郎であった。彼らは社員たちがどうすればその潜在的な能力を開花できるか、どうすればオーバーアチーブメントを果たすようになるか、そのための就労環境の整備にもっぱら知恵を絞った。町工場を短期間のうちに世界的な企業に成長させたこれらの経営者たちは、組織マネジメントとか、社員の精密な勤務考課とか、そういうことには副次的な関心さえ示さなかった。
上位者の命令に黙って従うイエスマンであることが最優先に求められるようになったのは、この30年ほどのことである。90年代の後半から価値創造より組織管理を優先させる組織マネジメント原理主義者たちが登場してきて、あらゆる組織を仕切るようになってきた。
今の企業経営者たちは社員たちの潜在可能性を開花させることには何の関心もない。彼らの労働力からどれだけ剰余価値を搾り取るかにしか興味がない。そして、困ったことに、働いている人たちもそのことに特段の不満を抱いていない。ビジネスの成功者というのは誰もがそういうものだと思っている。エゴイストでなければ成功できないのだと思っている。そして、成功した人間には成功していない人間に屈辱感を与える権利があると思っている。繰り返すが、まことに気の毒な話である。